見出し画像

現実と非現実が溶け合う時代をぼくらはどう生きればいいのか【藤井直敬教授特別講義レポ】

医学博士でVR研究者の藤井直敬先生による特別講義が無料で(!)受けられると聞いて、去る10月21日、お茶の水にあるデジタルハリウッド大学大学院まで行ってきた。

MITや理研で長らく脳神経科学やVRの研究を続けてきた藤井先生は昨年、同大学院の専任教授に就任。2019年度から「現実科学ラボ」なるものを開講するという。特別講義はこれからラボで扱おうとしている「現実科学」とはなにかを最新のテクノロジー活用の事例はもちろん、哲学や脳科学なども参照しながら論じていく内容。ラボのイントロダクション的な位置づけであり、大学院として入学希望者を募る目的で開催された(のだと思う)。

さて、先生の言う「現実科学」とはなんだろうか。昨年デジハリの杉山学長から教授就任のオファーを受けた際、これからやろうとしていることを説明するためにまとめたのが、次の文章だという。

現実は小説より奇である。現実がフィクションよりつまらない時代は終わった。テクノロジは現実とフィクションの間を連続したスペクトラムでつなぎすべてを現実に引き寄せてしまう。そのような新しい現実に向かいあって生きていく我々には、それを前提とした哲学・サイエンスが必要である。現実科学はそのための科学である。これまでの定量性を重視する科学とは思想が異なっている。ヒトの主観によって構築される個々人の現実を科学するための手法を構築し、社会実装のための応用を目指す

「現実とフィクションの間を連続したスペクトラムでつなぎすべてを現実に引き寄せてしまう」とはどういうことか。「そのような新しい現実に向かいあって生きていく我々」に必要な哲学・サイエンスとはどのようなものか。とても大きな刺激を受けた1時間だったので、誰かにシェアしないではいられないと思い、拙いメモをもとにこの記事を書くことにした。「レポート」というには正確性を欠くかもしれないが、ご容赦いただきたい。

現実か非現実か判別不能な世界

どこまでが現実でどこからが非現実なのか、人間には判別ができない時代がすでに到来している。例えばこの犬の写真。

本物の犬の写真に紛れた左上の1枚は「GAN」という人工知能が自動生成したものだという。人工知能には見分けられても、どれが本物でどれが偽物か、見分けられる人間はおそらくいない。というか、そもそも偽物が紛れていると疑うことすら普通はしない。

これはまた別の例。動画向かって左の女性は、AR技術を扱うアメリカ企業マジックリープの作った人型アバター「Mica」。右の女性のようにヘッドセットをつけると、目の前にほぼ人そのもののアバターが現れて、会話をしたり絵を描いたりする。目の前にいるのが人なのかアバターなのかはもはや判別不能。そういう時代がすでに来ている。

科学とはなにか。存在とはなにか

「現実科学」とは、そのような時代の「現実」を「科学する」ことだ。では「科学する」とはどういうことだろうか。科学者自体は何百年も昔からいたが、科学とはなにかを定義することは長い間できずにいたのだという。

その議論に終止符を打ったのが20世紀前半のイギリスの哲学者カール・ポパー。ポパーは「反証可能性があるものが科学である」と言った。「反証可能性がある」とは、間違いを指摘できることを言う。間違いがあった時にそれを指摘できるからこそ真理へと近づくことができる。ということは、科学にはどこにも絶対的なものはなく、すべてはひっくり返る可能性があるという意味でもある。

反証不可能なアートや宗教はこれまで科学の対象にならなかったが、こうしたものも今後は科学の俎上に載る可能性があると藤井先生は言う。「なぜならアートも宗教も人が作り上げたものだから。アートをアートだと思えるのは脳がそう思うからである。であれば、脳をターゲットにすればよい」

では、一方の「現実」とはなにか。こちらはこちらで難しい。なぜなら、現実は人によって異なる。見ている場所が違えば見えるものも違ってくる。100人いれば100通りの現実がある。

ならば「存在」とはなにか。そこに確かにものが存在するとどうして言えるのか。例えばスカイツリーの先端部分は間違いなく存在するものだとぼくらは思っているが、触って確かめたわけでもないのにどうしてそう言えるのか、と先生は問いかける。「存在とは、そこにあるものとぼくらが信じているに過ぎない。信じている人にとっては存在するし、信じていない人にとっては存在しない。疑い始めたら一歩も動けなくなるので、とりあえずあるものとして信じているだけだ」

言われていることはわかるが、あらためて突きつけられると恐ろしい。実は、藤井先生自身もかつて同じ恐ろしさを感じていた。先生がこの日話したような哲学的なことを考え出したのは、理研にいた際にSR(代替現実)という技術を作ったことがきっかけだったという。

体験者が正面にカメラのついたHMDをつけると、被った瞬間はカメラ越しのいまの映像が見えている。だが、途中で同じ場所で撮った過去の360度映像に切り替えると、まるで現実がすり替えられたようになって、目の前にいる人が本当にいまいるのかどうかもわからなくなる。

このような技術を開発したことにより、藤井先生は世界が主観でしかないことをあらためて思い知り、「地獄の釜を開けてしまった」と戦慄したのだという。「それまで哲学や環世界になどまったく興味がなかったが、考えざるを得なくなってしまったのだ」。人を扱うテクノロジーの前に、まず人自身を知る必要があった。

ぼくらは主観という膜の中に閉じ込められている

さて、そんな“頼りない”世の中にも確かなものがあるとすれば、それはなにか。このことを突き詰めて考え抜いたのがデカルトだ。有名な「我思うゆえに我あり」の言葉の通り、デカルトはすべてを疑っている自分の存在そのものは唯一確かだろうと考え、それを公理として世界を再構築しようとした。

だが、デカルトの言うように主観的な自分を起点に世界を理解しようとすれば、すべてが主観にならざるを得ない。「つまり、ぼくらは自分自身の主観という膜に包まれてこの世の中に存在している」と藤井先生は言う。

同じことを別のアプローチで説明するのに、ドイツの生物学者ユクスキュルの「環世界」という考え方も参照した。環世界とは、それぞれの生き物にはそれぞれの世界があるということ。例えばカタツムリと人とでは世界のあり方が違う。

カタツムリをピンポン球の上に乗せ、胴体を固定。その前に渡り板を敷き、前後に動かす。動かす速度が4ヘルツ以上だとカタツムリはその橋を渡ろうとする。これは4ヘルツ以上の速度で動いているものはカタツムリからすると常にそこにあるものとしてしか見えないことを意味している。

同じことは人間にも言える。映画が実際はコマ送りなのにカクカクして見えないのは、24フレーム以上だと人間にはつながって見えるから。人間から見て確かにあるように見える床も、24フレーム以上のスピードで動いていれば、そこにはない可能性がある。

チャン・ギージーという人が書いた論文によれば、人が作る文字やシンボル、サインはすべて自然界に存在するパターンの制限を受けているという。例えば漢字やその他の象形文字などはすべて36個のパターンの組み合わせでできていて、その出現頻度がどれも似ている。なおかつそれは自然界におけるパターンの出現頻度とも酷似しているらしい。

つまり、人がどれだけユニークなものを作ったと思っても、自然の影響を強く受けることから逃れられないでいるということ。人間も自由なようでいて、実はカタツムリなどと同じく、主観世界、あるいは脳と身体が規定する環世界という狭い世界に閉じこもって生きている。

狭い主観世界から飛び出すには?

では、ぼくらの世界を規定している「主観」とはなにか。主観はいつ始まるのか。多くの人は、大人である自分は生まれた時から同じようにして世の中を理解してきたと思っているだろうが、それは違うと先生は言う。

例えば、生まれたばかりのネコを縦縞しかない世界で育てると、そのネコの脳は横縞を見ても存在に気づかなくなることが実験からわかっている。脳は生まれた時に完成しているのではなく、感受性期と呼ばれる一定期間に正しい刺激を正しく与えられることで、あるべきかたちで機能するようになる。

チンパンジーは大人になると鏡を使って毛並みを整えたり歯に挟まったものを取ったりするが、子供の頃は鏡に映っているのが自分であると理解できない。鏡に映っているという認識は発達過程で獲得するのであって、それまでは鏡に映る自分も環境の一部なのだという。

同じことは人間についても言える。つまり、当たり前のものと思っている主観世界は、脳が学習によって獲得したものだということだ。学習した結果としていまの自分になっているのであって、最初からそうだったわけではない。

世界がそう見えるのは自分自身の主観がそのように作っているからであり、また主観は生まれながらにそうだったのではなく、後から獲得されたものである。だとすれば、なんらかのテクノロジーで主観(脳)に働きかけることができれば、人間はこれまで閉じ込められてきた狭い世界から飛び出せる可能性がある。それこそが人に残された最後の希望ではないか、と藤井先生は言う。

「テクノロジーを持たない野生の身のままだったら、人間は1000年以上前にやっていたのと同じように、主観的な世界に閉じこもったまま殺しあったり愛し合ったりするだけだったろう。だが、いまのぼくらには人の能力を拡張するテクノロジーがある。それを怖いという人もいるが、そういうテクノロジーがすでにあるんだからしょうがない。使わないのは損だ、とぼくは思う」

カギは「無意識」にあり

主観とはなにか。それを考え抜いたのが現象学の祖と言われるフッサールだ。フッサールは「ぼくらの世界はすべて主観的な意識体験に過ぎない」と言ったとされる。「無意識」ではなく「意識」体験というのが大事だ、と先生は言う。

脳で行われる情報処理のうち、意識に上るのはほんの一部であることが知られる。大部分は無意識で処理される。人間は無意識のレイヤーにあるものをどうにかして理解することができるのか? 答えはまだないが、「現実科学」が狙うのはまさにここだ。

「意識が処理できる情報量は限られている。人をもっと進化させたいなら無意識に働きかけないとダメだ。だから、現実科学でやりたいのは、意識と無意識の隙間にどうにかして情報をぶち込み、新しい現実を作るようなこと。そのことによって世の中をよりよく、豊かにしたい」

20年ほど前に生まれたブレイン・マシーン・インターフェース(BMI)という技術がある。事故で首から下が動かない人の脳の中に電極を入れる。その人が考えただけでその信号を記録し、ロボットアームを動かせるという仕組みだ。

当初は「動かそう」と一生懸命に考えることでアームを動かしていた人も、次第に「目の前のものを取りたい」といったゴールを考えるだけでアームが動かせるようになるのだという。つまり、ぼくらが手を動かす際に「この筋肉をまず動かして・・・」などと意識しないように、システムにより、無意識の処理が可能になるということだ。

昨年、イーロン・マスクが開発した「Neuralink」と呼ばれるBMIが話題になった。補聴器のように無線のデバイスを耳の裏につけるだけで、脳の中に入ってものを動かせる。なおかつ自分の脳の活動をスマホで見ることもできるという。「来年治験が始まったらものすごいことが起こるかも。大掛かりでものすごく大変だったBMIの技術だが、レーシックと同じ感覚でできる時代がもうすぐ来る」と先生。

生身の身体はすべて主観の制限を受けている。だが、例えばBMIのようなテクノロジーがあれば無意識と無意識がつながることも可能だという。テクノロジーが無意識をつなぐことができたとしたら、人は初めて主観が作り上げた境界の外側に行けるかもしれない。

VRの会社がなぜハンバーグを売るのか

「現実科学」のターゲットは無意識。では、どう無意識にアプローチすればいいのか。現時点ではまだ答えはないというが、例えば「共感覚」と呼ばれる技術が面白い、と藤井先生は言う。特定の絵を見たら音楽が聞こえるという人がいるが、これは視覚と聴覚が混ざり合った状態。この共感覚はもともと脳に備わった機能だから、それを利用するというのはどうか--。

ゲームクリエーター の水口哲也さんらが手掛けた、振動スピーカーの上に人が寝るというアート作品「Synesthesia X1-2.44」は、聴覚と触覚をうまく組み合わせた例だ。ここで生まれる感覚は通常ぼくらが感じる感覚とはまったく異なるものらしい。「人によっては泣き出すし、ぼくは重力がなくなったと感じた」

藤井先生が代表を務めるVRの会社「ハコスコ」は、最近になって突然、「エナジーバーグ」というハンバーグを売り出した。VRの会社がなぜハンバーグなのか。そのターゲットはもちろん、これまで通りの人の脳だ。「VRは視覚と聴覚がターゲット。アートコンテンツはそれに触覚が混ざったもの。嗅覚を刺激するアロマも売っている。五感のうちで最後に残っていたのが味覚だった。そこにアプローチするのがエナジーバーグというわけだ」

エナジーバーグは単品でも美味しいハンバーグだそうだが、そこに玉露パウダーが入っている。玉露パウダーには高濃度のカフェインが含まれており、カフェインには広く知られている通り覚醒作用と利尿作用がある。結果、エナジーバーグは「おいしく食べる」という体験とは別に、「食べた30分後も眠くならない」という体験を提供するのだという。

この体験は、そうした効果があると知っていようと知るまいと関係なく起こる。つまり、無意識に働きかけている、ということになるらしい。最後に「無意識に働きかけたいと思ったら、まずは買って食べてみよう」と呼びかけて、約1時間の刺激的な講義は終わった。

おまけ:個人的な話

藤井先生はもともと眼科医で、そこから大学院へ行って神経科学の研究者になり、理研やらMITやらでサルの脳みそに電極をぶっ刺して脳の活動を測定するというハードコアな研究に従事するように。その過程でSRというVRの斜め上の技術を発明したところからVRの世界にどんどんのめり込んでいき、スマホを使った段ボール製VRビューワーを販売するハコスコという会社を立ち上げた。常人には理解しがたい経歴を持つ研究者・医学博士だ。

ぼくは藤井先生がまだ脳科学・神経科学に軸足を置いていた2010年に書かれた著書『ソーシャルブレインズ入門』を読み、脳の秘密を分解された機能ではなく、関係性やネットワークとして解明しようとする「社会脳」の考え方に感銘を受けた。また、家族、村、町、国家・・・と拡張されていく実社会のネットワークを、個人の脳の中で神経細胞同士がつくるネットワークの延長として理解する世界観に、ものすごく大きな影響を受けてもいる。

その後も著書はすべて読むなどして動向はゆる〜く追っていたが、「エンジニアtype」というWebメディアの編集に携わっていた2014年に、当時ハコスコを立ち上げたばかりだった先生にインタビューさせていただくことができた。粗い文章の上、誤字まであってシェアするのは恥ずかしいが、ぼくにとっては特別な仕事の一つだ。

藤井先生はこのインタビューの中で、「本当にちょっと前までは、いつ死んでもいいと思っていたんです」という衝撃の告白をされている。それが、VR・SRという技術に出会ったことにより、この技術が作る未来を見るまでは死ねないと翻意したと語っていた。

あれがいまから5年前。だから、今回の講義はぼくにとって5年前の答え合わせというか、あのように語っていた藤井先生が5年経ったいまなにを考えているのかを知るための場だった。まだ十分に消化できていないけれど、期待通りにまた新たな刺激を与えてもらったと思っている。

というわけで、その興奮のままに荒々しい文章で書き散らしてしまったことをお許しください。でも、どう考えてもコレ、めちゃくちゃ面白いよね!?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?