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不安と三権分立

「悲しい」とか「不安」というのは「悪」とは違う。信じたいけど上手くいかない、自分が思っていることと違った、悪意はないものに損させられた。そういった経験は「警戒心」や「猜疑心」のもとになる。

「悲しみ」「不安」「警戒心」「猜疑心」は社会に生きていればとても身近に感じる感覚だ。しかし、「警戒心」や「猜疑心」は未来を予測して、機能を保全したり、不完全さを受け入れることもある。

今日は、それらが三権分立につながると思った。



国家権力の濫用、専制政治の誕生、環境により判断の鈍化、これらが無くなることはないだろう。大前提として受け入れた方が気が楽になる。

オルテガは「絶望を共有することだけが唯一の希望である」と言った。

モンテスキューが権力分立論を語ったとき、時代は君主制だった。現代のように従来の君主制が否定されたのちも権力分立制は権利保障のための重要な原理と考えられているが、もっと絶望した時には違ったなにかが生まれるのではないか。

隠されていたことがもっともっと情報処理され、人々が全てを受け入れたら。

絶望と保守の狭間から、猜疑心と愛の狭間から新たな仕組みが論理化されることが少し見えた。

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