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国境を超える

ボスニア・ヘルツェゴビナの国の中には二つの国が存在している。一つはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、もう一つはスルプスカ共和国である。前者がボシュニャク人の国であるのに対し、後者はセルビア人の国。

言葉はかなり近いけれど、ボシュニャク人が主にラテン文字を使っている一方で、セルビア人は主にキリル文字を使っている。宗教はボシュニャク人がイスラム教徒が多いのに対し、セルビア人は東方正教会。

地図を見ればわかるが、ボスニア・ヘルツェゴビナの東側にセルビアが位置しており、スルプスカ共和国はセルビア人の国なので、セルビア側からボスニアを覆うような形で存在している。

同じ国の中に大きくは二つの民族が存在しているわけだが、何も望んでこうなったわけではなく、ボスニア・ヘルツェゴビナが旧ユーゴスラビアから独立しようとした際に民族間で意見の相違が生じ、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争などを経て、とりあえず現在の状態に収まっているというわけである。

連邦とスルプスカの国境の間には何もない。Google Mapsでは国境線が引かれているのに、実際には何もないのである。と言っても、国境を全て通ったわけではないので、例えばスルプスカ最大の都市、バニャ・ルカの近くなどは検問などあるかも知れないが、少なくともサラエボ空港近くの紛争時激戦区だった辺りの国境には、何も存在していなかった。

国境近くに来た時、友人は向こうの国が見たいと見えない国境を渡り、そのまま先に進んでいった。私はというと、寒さと霧と、そしてどことなく踏み入れてはいけない気がして、国境前で引き返しバスに乗って帰った。国境といっても、ボスニア・ヘルツェゴビナ内であることには変わりないのだが。

思えば私は国境をこの自分の足で越えたことがない。日本から海外に出るときは飛行機に乗っているし、ヨーロッパ内の移動だって電車かバスで、歩いて国境を越えることはなかった。

国境を超えた友人によればスルプスカに入ったところで何か劇的に変わるわけではないらしいが、それでも番地や街の表記がいきなりラテン文字からキリル文字に変わり、墓地はイスラム教式ではなく、正教会のそれになっている。

旧ユーゴスラビア圏の歴史を紐解くなんということは、私には到底出来そうもないが、この地域は古くはオスマン帝国に支配され、その後オーストリア・ハンガリー帝国の侵略、そして旧ユーゴからの独立と、時代により国境線が変わり、その度に争いと妥協のようなものを繰り返してきたのかと想像してみたりする。

日本という大方の国境が島国という特性からあまりにも明白な土地に生まれ育った身としては、ここに住む人と私に持つ国境のイメージが異なるのかもしれないと思った。

国境は見えない。けれども日本の周りには海がある。そういう意味では物理的な隔たりが国の境目を決めていると言っても過言ではない。ここには物理的な隔たりはないが、目に見えない超えられない壁があるように思える。

じゃあ何が国境を決めているのかと考えてみると、当たり前だが結局人なのである。国境線を引くのがそもそも人間の意思決定であるし、国境線の内側はある程度同質の民族(人種、宗教など)が固まっている場合が多いように思う。

(もちろん先に述べたような地理的条件ゆえ国境が決まっている場合も多いだろうし(しかしそれゆえ結局似たような人々が集うか、混ざり合ううちに均質化されていくのだろうが)、地理的条件や人々の特性を全く無視した人工的な国境の引き方もあるわけだが。)

国境を超えるとは、単に物理的な位置の移動ではなく、人と人との営みなんだと思う。超えるというと、超える側の能動的な行動に注目されがちだが、国境を超えるもの、そして超えられる(迎え入れる)ものがいて初めて成り立つ行為ではないだろうか。

受け入れる側の準備ができていなかったり、あるいは完全に閉ざされた状態で無理やり国境を超えることは単なる侵略にしかすぎない。国境(壁)を保ちつつ(つまりお互いの領域を犯さない)、しかし相手を受け入れる・相手に受け入れられるという何とも微妙なバランス。

本能的にボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の国境を超えられなかった私はまだ相手側に入っていく準備と勇気がなかったのであろう。そして外的な力(例えば飛行機や電車)を借りて、国境を超えるという意識をせず異国へ降り立つ際には、十分に注意と尊敬を保ちたいと改めて思ったのである。