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#23 兼業生活「<しっくりくる感じ>を求めて」〜山下裕子さんのお話(1)

今回は、金継ぎ師の山下裕子さんにお話を伺いました。山下さんとは2018年に宴席でお会いしたことがあり、ご本人のやわらかい雰囲気と、「金継ぎ師」と刻印された名刺の組み合わせが印象に残りました。その後しばらく経ち、2022年に知人が運営するシェアスタジオから「金継ぎ教室をやりたい」と相談されたとき、すぐに山下さんを思い浮かべました。

その後、山下さんの金継ぎ教室に、私たち生徒は割れたり欠けたりした器を持ち寄り、1ヶ月おきに5回通いました(写真は、その教室で生徒たちが修繕した器です)。なぜそんなに回数を重ねたかというと、山下さんは合成接着剤などを使用せず、接着から下地、塗りの全てに天然漆を使用する「伝統金継ぎ」をおこなっているからです。

麦漆で接着した部分を乾かし、はみ出た部分を削った後に黒呂色漆でコーティングして、また乾かし……。天然漆の金継ぎは、待つ時間が長い。ゆったりとした作業をみんなで繰り返しながら、私はだんだん、山下さんがなぜ金継ぎ師になったのかが気になり始めていました(全4回の記事です)。

(プロフィール)
1975年、島根県生まれ。東京都在住。ファッションブランドのプレスとして勤める傍ら、大切な器が割れたのをきっかけに金継ぎを学び始め、漆という素材そのものに興味が深まる。退職後、2015年より本格的に本漆での陶磁器のお直しを請け負っている。

加速する時間と、自然に委ねて待つ時間

室谷 ホームページでプロフィールを拝見したのですが、金継ぎ師になる前は、アパレルで働いておられたんですね。

山下 はい。「ぜんぜん違う方向に転じた」と思われがちなんですけど、ファッション業界にいたころから、あまり流行を追いかけるとか、大量生産されたものに興味が薄くて。顔が見える範囲での、手仕事を感じられるものづくりが好きで、そういうブランドに惹かれていました。根本的に、好きなものは変わっていないですね。

室谷 ご実家がある島根県を出て、東京に来たのはいつですか。

山下 29歳まで松江にいて、セレクトショップで働いていました。展示会や仕入れで東京にはよく出向き、お友達もいましたが、当時は「東京と地方の距離」はいまよりずっと遠かったですね。地方でファッションの仕事をしていてもあまり選択肢がなく、自分が好きなものづくりの世界に関わるなら、やっぱり東京に行かないとダメだなと思いました。

それで上京して、いくつかアパレル会社で勤めた後、古いものやアクセサリーを扱うブランドに出合いました。デザイナーさんが1人で立ち上げたブランドで、日本の職人さんが昔ながらの技術を生かしたものづくりやブランドの背景に惹かれて、ちょうどイベントのスタッフ募集をしていたのでお手伝いをしました。そのご縁でデザイナーに誘っていただき、そのままスタッフになった。オリジナルコレクションを始めた時で、人手が必要なタイミングでした。

その後、ブランドはどんどん成長し、法人化します。最初は社員3~4人の小さな会社だったので、みんなでいろんな仕事を兼任しながら働きました。スタッフはみんなお店が大好きで、私もすごく思い入れをもっていました。

ブランドが成長するとともに会社も大きくなり、社員もどんどん増えました。そうなると、小さい規模のときに比べて経営面で変えなきゃいけないところがたくさん出てきますよね。プレスの仕事をしていて忙しくもやりがいを感じていましたが、求められる役割が増え、私はオン・オフの切り替えがうまくできるタイプじゃないので、常に仕事のことで頭がいっぱいになって。6年半ほど勤めた最後のあたりは気持ちに余裕がなく、生活がおざなりになっていきました。

室谷 会社が大きくなるときって、社員の側も、次のステージに向かって頭を切り替えなきゃいけないのでしょうね。その状況を受け入れて変われる人、新しい世界に突き進むのが好きな人ももちろんいます。でも、山下さんはそういうタイプじゃなかった。

山下 そうそう。ちょっと気持ちが追いつかないな、というところがありました。そのブランドにはごく初期のころからいたから愛着があったし、ブランドの成長は嬉しく思っていました。でも会社が大きくなるにつれて、自分の気持ちとの距離が大きくなってしまって。ファッション業界の短いサイクルに合わせて物事が回っていくことにも違和感を感じ、「このまま会社にいる自分の将来が、見えなくなっている」と感じました。

そういう葛藤があり、直感的に「まずいな」と思っていたときに、金継ぎ教室に行ったんです。それこそ器も好きで、いつか直そうと思って仕舞い込んでいるものがありました。私が育った島根には不昧流という茶道の流派があり、お茶文化が根付いています。陶芸も盛んな土地で、私も興味があり窯元で作らせてもらったこともあります。その延長線上で金継ぎの存在も知っていましたが、それまではなかなか機会がありませんでした。

でも自分のこれから先がモヤモヤしてきたときに、無理にでも時間をつくって何かしないといけない、と感じたのです。それで「よし、金継ぎで器を直そう」と、とにかく行ってみた。そのときはワンクールの伝統金継ぎだったのですが、漆の特性や歴史も学ぶことができて、その面白さにハッとつかまれた感じがありました。

漆の樹液には接着力があり、防虫効果もある。諸説ありますが、日本では縄文時代にすでに人類が漆の効果を知っていたといわれています。すごく丈夫な天然素材で、古くはお寺などの貴重な建造物から、武士の鎧にも漆を塗った。それがいまでも残っているって、すごいことですよね。

金継ぎのベースとして使う「生漆」は、樹齢10年以上の漆の木から採取され、その量は一本の木からたった牛乳瓶1本程度。そういう貴重な天然材料をつかって、大切なものを直して使うというのは、喜びであり、理にかなっていると思いました。

それからしばらくは独学で金継ぎについて調べたりしましたが、やっぱり道具を購入して本格的に取り組もうと思い、漆芸教室に通い始めました。

室谷 アクセサリーブランドの仕事の合間に通ったのですか。

山下 そう、なんとか時間をつくって。そこは漆屋さんが主催する教室で、金継ぎ以外にも漆塗りや螺鈿、鎌倉彫もありました。いろんな漆の作家さんが講師をなさっていて、とても面白かった。そこでの時間は、なんというか自分にとって自然でした。忘れていた感覚があって、しっくりきたという感じ。私は細かい作業が割と好きだし、好きな器を直して使えるということ、そこにある自然と人との関わり方みたいなものが、性に合っていたんでしょうね。

漆ってすごく繊細で、気温と湿度によって状態が変わります。温度15~25度、湿度60%~80%が硬化するのに適した環境なので、季節によって作業にかかる時間も違うし、思い通りにいきません。最後は自然に委ねて、待つしかない。そのとき私が身を置いていた会社の、スピードが加速していく感じと、時間軸がまるで逆でした。

そうやって漆芸教室に通ううちに、もっと暮らしと地続きのところで生きたいなあと思ったんです。そのときは金継ぎが仕事になるとは思っていなくて、でも多分、金継ぎのおかげで忘れていた感覚を取り戻せたんだと思う。とにかくそれで、会社をやめる決心がつきました。

(つづきます→「やりたいこと」は見つかったけれど

※写真はすべて友人である写真家の中村紋子さん@ayaconakamura_photostudio によるものです

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