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#32兼業生活「人と関わる仕事は、死ぬまで勉強だ」〜姜 由紀さんのお話(2)

幸せか、不幸かを測る視点は1つじゃない

室谷 学生時代にふられたという鄭さんですが、その後、おふたりは再会して結婚することになります。この経緯を聞いてもいいでしょうか。

 私は関西、彼は関東で離れて暮らしていたのですが、友人からの噂で「まだ好きらしいよ」と聞くんですよ。最初は「何それ、興味ないし」と聞き流していましたが、だんだん「なんでそんなに好きなんだろう」と気になり始めて。

たまたまこの人が関西にいる共通の友達のところに遊びにくると聞いて、「来るの?」と電話したらびっくりしたみたいで。「私も行こうかな」と言ったら「えー、あー」とか慌てているのが面白かった(笑)。それがきっかけで、再会したんですね。

室谷 そこからお付き合いが始まって、たしか結婚後すぐにおふたりはオーストラリアを訪問するんですよね。

 その前に、阪神淡路大震災がありました。彼女は神戸市長田区の実家にいて、被災したんです。

 1995年3月に結婚する予定で、阪神淡路大震災は1月17日。私は就職して3年目で、兵庫県立のリハビリ専門病院で看護師として働いていました。その日は結婚の準備のために彼と会う約束をしていて、勤務を早番に変えてもらっていた。5時40分ごろに家を出て、駅の地下道で、ズドーンとすごい衝撃がありました。

外に出ると、電気が消えて真っ暗。走ってきた車のヘッドライトがばーっと照らしたのが、灰色の砂埃と崩れた建物で、まるで世界の終わりのようでした。私は怖くなり、駅にいた人たちに「一緒に行きませんか?」と声をかけたのですが、みんな呆然としたまま無言で歩いていく。家に残してきた両親のことが心配で、なんとか帰ったときは過呼吸になっていました。

幸い、母は私と一緒に起きていたし、父は倒れた箪笥の隙間にすっぽり挟まって助かりました。本当に運が良かった。私の部屋の本棚は倒れていたので、早番にしていなければ大ケガをしたか、死んでいたか……。

そのときに感じたのは、「人間、いつでも死んじゃうんだ」ということ。いつ何が起きるかわからないから、やりたいことを先延ばしにしちゃダメだと思いました。

 震災の翌日、僕はドラえもんの四次元ポケットか?というほどの荷物を抱えて、神戸に向かいました。大阪までは新幹線で、あとは電車が不通だったので自転車で行きました。当時は携帯電話を持っていなくて、様子を知るにはとにかく駆けつけるしかなかった。大変な被害でしたが、彼女とご両親が無事でとにかくありがたかった。

正直、こんなことがあったから、結婚もオーストラリアへの渡航も延期だろうと思っていました。でも彼女は、命拾いしたことでかえってやりたいことへの思いが強くなっていた。それで決行したんです。補足すると、オーストラリア行きは僕が彼女と付き合う前から決めていました。大学を卒業したら海外に出て、外から日本社会を見てみたいと思っていたからです。

僕は彼女と違って朝鮮学校ではなく、日本の小中高を出ました。そこで強烈な差別、暴力といじめにあった。そこから大学に進み、やっと悩みを打ち明けられる在日の仲間に出会います。早くから「在日」というマイノリティを意識していた僕は、別のマイノリティの人たちと出会いたくて、学生時代は障がい者のボランティアをしました。一方で、在日の先輩たちががんばって日本のいい大学に入っても、思うように就職できなくてダメになっていく様子も見てしまって。

だから自分が卒業して日本社会に出るときに、「上からではなく、下から入っていこう」と決めていました。就職活動をしないで「泥水をすすってでも生きていく」と言い、周囲から「お前の考えはいまの社会では通用しない」と批判されました。だけど僕には、みんなが言う「いまの社会」が何なのかがわからない。だから一度海外に出て、外からこの社会を見ようと思ったのです。

オーストラリアを選んだのは、知人から「福祉社会で、面白い国だよ」と聞いたから。でも実際は、在日朝鮮人として渡航する手続きがかなり大変で……。大使館に3回面接に行き、貯金通帳や英語の書類も提出し、それでもワーキングホリデーのビザは下りず、4ヶ月滞在の観光ビザが精一杯でした。大使館のスタッフは、「あなたのせいではなく、国と国との問題なのです」と言ってくれましたけど。

室谷 ビザの手続き1つとっても、こんなにも自由が制限されているのかと、驚くことばかりです。姜さんは看護への興味から、オーストラリア行きを決めた。

 そうですね。看護を学んで仕事にする中で、「オーストラリアは福祉国家だ」と聞いていて、海外のケースを見たいと思っていました。現地では語学学校に通いながら、緩和ケアを行なう病院など、医療現場を見学しました。

現場で話を聞くと、福祉制度の違い、看護師の待遇など、日本とかなり差がありました。スタッフが長期休暇を年に何度も取れるなど働き方に余裕があるし、患者さんとの対等な関係性、最期までその人らしく生きるために協力してサポートする体制など、看護学で習ったことが実践されているんですね。

私が就職した1990年代は、日本の病院に欧米で培われた看護学の理論が入り始めた時期でした。大学生の私たちが実習に行くと、先輩から「あの子たち勉強はできるけど、理論ばっかりで技術がねえ」とか、嫌味を言われるんですよ。いまは理論に照らし合わせるのが常識になっていますが、当時いち早く海外の先進事例を学べたことは、とても良い経験になりました。

室谷 その後の職場も含め、看護学での学びを実践するというのは、具体的にどんなことなんでしょう。

 定番の言い方になってしまうけど、現場ではやっぱり、患者さんとの出会いが宝物です。病気を通していろんな人生を見て、関わっていく。そこでは病気を治すだけではなく、「患者さんが元の生活環境に戻っていくために何が必要か」「この人が人生に求めることは何だろう」というところまで、看護の仲間たちと一生懸命考えて、ケアしていくんですね。

特に、帰国後に勤めた総合病院は貧しい人も受け入れていたので、いろんな事情を抱える方々が来ました。私たちは医療従事者として、食事や運動など生活習慣についてのアドバイスをしますよね。だけど患者さんのお話を聞いたり、訪問看護で暮らしぶりを見たりすると、そうしたくない、できないこともたくさんある。そういう事情を理解しながら、どうやってその人の生活と医療とのバランスをとっていくか。地域のケースワーカーさんたちと連携し、チームで方法を考えました。その話し合いも含めたプロセスに、看護学の理論が生きる。そこがすごく面白かったです。

印象に残っているのは、アルコール依存症で肝臓を悪くし、入退院を繰り返していたNさんのこと。若いころは元気でバリバリ働けたそうですが、安定した職に就けず、年をとると日雇いに頼るようになった。その過程でお酒を飲むようになり、最後は肝硬変でぽっこりお腹が出るくらい腹水がたまって、余命わずかでした。どんなに注意しても酒量を減らさず、病院に来るたびに病状が悪化する、困った患者さんです。でも、いよいよその人が亡くなるというときに、仲間が次々にやって来たんですよ。

室谷 ああ、慕われていたんだ。

 来た人たちが「いままで、よく頑張ったな」と優しく声をかけているのを見て、「Nさんの人生、悪いことばかりじゃなかったんだ」と思いました。お金や仕事のことは、きっと自分ではどうしようもなかったんですよね。病気だって苦しかったけど、たくさんの人たちに囲まれて、関係性をもつことができて。他人から見ると不幸かもしれないけど、本人が幸せか、不幸かを測る視点は1つではないと感じました。

室谷 なるほど……。「注射を打つのがうまい」みたいな実践的なスキルだけでなく、「人間そのものを見る」という意味がわかってきました。

(つづきます→「看護、負けてるんじゃない?」)

※写真はすべて友人である写真家の中村紋子さん@ayaconakamura_photostudio によるものです

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