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#33兼業生活「人と関わる仕事は、死ぬまで勉強だ」〜姜 由紀さんのお話(3)

看護、負けてるんじゃない?

室谷 「人間そのものを見る」看護の仕事に魅かれた姜さんですが、子育てをする中ですばらしい保育者と出会い、影響を受けたそうですね。

 それこそ最初は、保育園を「子どもを預かってもらう場所」だと思っていたんです。看護師を「患者さんを介助する仕事」と思っていたのと似ていますよね。でも実際は、保育士さんの仕事はただ子どもを“預かる”だけでなく、子どもを家族ごと“支える”ことだと知りました。

出産後に勤めていた総合病院には、院内保育所がありました。私たち看護師は残業が多く、お迎え時間に間に合わないこともあるのですが、保育士さんたちは注意するどころか「大変だったね」と労ってくれて。こっちも「そうなんです、こういうことがあって……」と愚痴をこぼし、仕事の疲れを洗い流すことができました。

あのころは仕事と子育て、家事に必死で、イライラして子どものことがきちんと見えていないときもあったと思う。そういうときに保育士さんたちから「今日、こういうことがあったよ」という話を聞いて、子どもを見直すきっかけをもらっていました。

保育園の話からそれますが、上の子は、病院丸ごとで育ててもらいましたね。夜勤のときに熱を出し、婦長さんや主任さんの家で預かってもらったり、残業が遅くなると病院に来て患者さんたちに遊んでもらったり……。いまでは考えられない、ゆるいというか、のびのびした時代でした。

室谷 そのころに比べていまは子育てが孤独になっている気がします。もっと安心して、ひらける場所があるといいのに。

 本当にそうですね。次に預けた保育園からもたくさんのことを学びました。院内保育は2歳までで、市の認可保育園を探したけどいっぱいで入れなくて。たまたま見つけた共同保育所に行ってみたら、古いマンションの1室で、出迎えてくれた園長先生が「まあ、見つからなかったの。大変ね。いらっしゃい!」と笑顔で言ってくれた。中を見たら、子どもたちがいきいきと遊んでいました。しかも偶然その保育園は、勤務先の院内保育所の前身で、昔職員が協力し合って起こした場所だったんですよ。

共同保育所って、保育園と保護者が力を合わせて子育てする場所なんですね。保護者が参加する会議や行事がしょっちゅうあり、大変だったけど、貴重な時間でした。ときにはぶつかりながらも子育てについて率直に意見を交わし、お互いを知り、保育士と保護者が支え合う関係が生まれました。自然と飲み会やキャンプも開かれるようになり、楽しかったですね。

その後、上の子の進学を迷っていたときにも、保育園で背中を押してもらいました。もともとは、近くにある朝鮮学校の小学校に行かせるつもりだったんですけど……。

 僕も朝鮮学校がいいと思っていました。自分が日本の学校でいじめと差別に遭って大変だったので、子どもに同じ経験をさせたくなかった。ある程度の年齢までは、同じ境遇の子たちと一緒に過ごすほうが楽しいはずで、辛い目に遭うのは先延ばしでいいんじゃないかと。

 一方で、私は勤務先の総合病院や保育園であったかい日本人にたくさん出会って、いろんな経験をさせてもらって。子どもだって、日本の小学校でやっていけるかもしれないと思うようになっていました。本人も「みんなと同じ学校に行きたい」と言うし、それでいいかな?と。

ある日、保育園の担任の先生に相談したら、はっきりと「朝鮮学校がいいと思います」と言われました。そしてすぐに朝鮮学校の幼稚園に連絡を取って、クラスのみんなで遊びに行く約束をしてくれた。子ども同士で遊んで、朝鮮の民族衣装を着せてもらったりして、すごく楽しかったようで。

鄭 歌も覚えて、誇らしげに帰ってきたよね。

 先生は、上の子がもって生まれた文化だとか、これから置かれる環境も含めて彼だというふうに思ってくれた。その事実は変わらないから、小さいうちにしっかりと理解し、同じ仲間の中でプラスのものとして受け止めるほうがいい、と。私は、日本人のほうに自分たちを寄せていかなければいけないと思い込んでいました。でも先生は、「それは違うよ。自分のルーツは大事にしていいところだよ」と言ってくれた。とてもうれしく、ありがたい言葉でした。

結局、息子は朝鮮学校に進学しました。小学1年のクラスはたった4人だったけど、25歳になったいまでも集まるくらい仲良し。それぞれ外に出て働いて自分たちの世界を発見しながらも、そこが「帰る場所」になっているんだと思うと、親としてうれしいです。

室谷 子どもたちを交流させた、担任の先生の行動を尊敬します。そうした保育に触れることで、お仕事にはどんな影響がありましたか。

 看護の世界でも、家族を含めた患者さんの背景を見ることが大事だと習うのですが、現場で実践するのはとても難しい。それなのに私が出会った保育士さんたちは、家族へのケアをごく自然に実践していました。感動すると同時に「看護、負けてるんじゃない?」とショックでした。

私は保育に関する本を読み、勉強会や研究会に片っ端から参加し、その奥深さを学びました。そうするうちに、自分ももっと看護を極めたいという気持ちがわいてきた。そのために、大学院で学ぶことを考え始めました。

 2人目の子育てが始まったころは、いったん子育てに専念してもっと子どもと向き合うのか、看護の仕事を続けて極めていくのか、かなり悩んでいたよね。そこにきて、僕が病気になる。

室谷 そのタイミングだったのですね。

 僕は最初、症状が重いのにムリして仕事を続けようとして、できなくて落ち込んで荒れていました。でも彼女は最初から、「難病の夫を支える献身的な妻」になる気はなかった。「自分が働いて家計を支えるから、あなたは家事に専念して」と言われました。結果として、僕は仕事をあきらめ、病気に向き合うことができた。

 仕事を続けるからには経験の幅を広げたいし、家計を支えるならお給料も高い方がいい。そう思って、長年勤めた職場を辞めてさらに大きな総合病院に転職しました。40歳を前にしてのチャレンジでしたが、「えいや!」って感じで。この人が病気になったからといってくすぶるよりも、新しい世界にいくことを選んだのです。

(つづきます→「背景を知っているから、できること」)

※写真はすべて友人である写真家の中村紋子さん@ayaconakamura_photostudio によるものです

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