正解のない曖昧さを楽しむ前にー助詞ってむずいー
「球場へ行く」なのか、それとも「球場に行く」なのか。
「野球が好き」なのか、それとも「野球を好き」なのか。
「私が叫ぶ」なのか、それとも「私は叫ぶ」なのか。
ひらがな一文字をどちらにするのか、10分・20分と悩むことが、ままある。そして、悩んだわりに、最後は「なんとなく」で感覚的に選んでしまう自分に「ほんまにプロか? それでプロなんか??」と、胸ぐらを掴みたい気持ちになることも。
そんな私にとって、今日のちえみさんの連載記事は、鼻息が荒くならざるを得ないものだった。
私が助詞を迷うとき、頭のなかにはいつも「国語の先生」がいた。指し棒を持つ先生の顔色をうかがいながら、正しい方を選ぼうとしていたんだ。
けれども、文法的な「正しさ」だけでは、助詞は選べない。だから、私はずっと助詞に苦手意識があったのかもしれない。
その文章で何を伝えたいのか、読者にどんな映像を見てもらいたいのか、それによって、選ぶ助詞は変わる。私が見るべきは、国語の先生の顔色ではなく、まずは自分の伝えようとしていること。そして、それを届ける読者なんだ。この2つが曖昧だと、選び方も曖昧なままになるのは当然のこと。
なるほど、なるほど。でも、それでもなんだか、まだモヤっとするのはなぜだろう。正解がない問いを楽しむ自分をまだイメージできないでいる。
正解が一つしかないものは、ある意味安心だ。誰が選んだとしても一緒だから。言うなれば、無味無臭。でも、正解がないものを一つ選ぶのは、自分の知識やスキル、経験、主義主張、あらゆるものが透けて見えてしまうような気がする。だから、ちょっぴり怖いのだ。
「に」が見せてくれる映像と、「で」が見せてくれる映像がまったく違うように、それぞれの助詞が見せる映像の違いがある。
知らないことには選べない。だから、まずはその映像の違いを知るところからはじめよう。そうしたら、きっともっとこの曖昧さが楽しくなる。
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