見出し画像

運転免許証を裏返して迷う

理科系夫は、朝1番で運転免許証の書き換えに行ってきた。

いつもいつも混んでいる警察署
苦労の甲斐あって、
彼は1番目の
ビデオ講習に潜り込み
首尾よく帰ってくることができた。

5年前と現在の写真を見比べたい。
どのくらい違うだろうか?
そう思って、そばに行くと。

なぜか運転免許証が
2枚とも裏を向いていた。
ーーー


あつこ「どうしたの?」 

理科系夫「いや、話さなくちゃいけないなぁと思うことがあって」

あつこ(いつもとはちょっと違う感じを受けて座り直す。)
「なあに?」

理科系夫「この免許証なんだけどね。」

あつこ「うん」

理科系夫「今までは、裏側のここに⚪︎をつけてた」

あつこ(??)

穴が開いている方が5年前のもの

小さな文字だ。目を凝らしてみる。

あつこ「私は心臓が停止した死後に限り……、これって」

理科系夫「臓器提供の意思表示」

理科系夫は古い免許証を手に取った。

理科系夫「5年前にこの免許になった時、自分の判断で丸をした。

あの頃はサラリーマンとして働いていたし、忙しい毎日だったから。
これについて家族に話していなかった」

あつこ(……)

理科系夫「でも、こうやって主夫になって、人生のラストステージに入ってきたわけだし。

臓器提供について妻であるあつこに了解を取っておきたい」

そう言って、目の前に裏返しの運転免許証2枚をきちんと並べた。

あつこは言葉が出てこなかった。

テレビや新聞で臓器提供の大事さを知らされている。

日本ではなかなか臓器提供がない。
募金を集めて海外に渡る人のニュースも聞いた。

臓器提供があるか無いかは、それしか手立てがない人にとって最後の命綱なのだ。

だけど、目の前にいるこの理科系夫に何かあったとき、
わたしは。

今まで真剣に向き合ってこなかった問題が
ぱっと目の前に出現した。

人生の終わりが少しずつ見えてきている定年後に。

ーーーー

臓器提供が必要なことだと頭ではわかっている。

でも、いつも他人事だった。

もしも何か不測の事態があって
この免許証の裏の宣言通りに物事が運んでしまった場合
私は冷静にいられるだろうか。

35年以上一緒に生きてきた夫が
切られていくのを黙って見ることができるだろうか。

ーーー

だいぶ前のことになるが
臓器移植の現場において
提供者の遺族への配慮が足りないと
新聞で読んだことがある。

理科系夫「僕も似たような情報は聞いたことがある。
でも、困ってる人の役に立てればいいのではないかと」


今まで運転免許証の裏に
このような欄があることを
気がついていなかった。

いや、気がつこうとしていなかったのだろう。
健康保険証の裏にも似たような欄があった。

日本人の
亡骸に対する思いは特別なものがある。

あつこ「ちょっと考えさせてほしい」

考えてもすぐには結論が出なかった。

最後は穏やかに見送ってあげたい。
本当にあなたを好きだった人と一緒に
少人数で
静かに見送りたい。

ーーー
そこで気がついた。

あつこが見送る前提になっているけど、
これって逆もあるわけで。

私の方が3歳下だし女性だし。

統計的には、妻が生き残る確率は大きい。

だけど。
健康に対する取り組みが
理科系夫と私では雲泥の差だ。

彼は普段から健康に積極的に取り組んでいる。
得意なルーチンワークだ。

それは、スクワットだったり
瞑想だったり
一日10,000歩歩くことだったり
顔のマッサージだったりする。
顔のシワは、私よりも少ないくらいだ。

きっかけは、働いていた時の慢性的な睡眠不足だ。
体調も良くなくて、会社を辞めた引き金の1つとなった。

この睡眠負債は、
主夫となり一年半ほど経った時にほぼ解消した。

つまり何を言いたいかというと
順番はわからないってことだ
これは私自身に対する問いでもあったわけだ。
ーーー

臓器移植は
関わる人たちの細やかな思いやりが欠かせない。

残された遺族も
その臓器が、誰かの体の中で生きていくことを
喜ばなくてはいけないのかもしれない。

今の法律では誰のところに臓器移植がされたか分からない状態になっている。
全く匿名状態でもいいから
移植された人からメッセージがあったらいいな。

どこの誰だかわからなくても
臓器が得られたことで、どんな生活が得られたのか
感謝の気持ちがあるのか
そんなメッセージがあればまた違うだろう。
ーーー

丸一日経ったが
運転免許証の裏に
どう丸をするのか。
まだ結論は私の中で出ていない。

きっとまだ死に向き合う覚悟が出来ていないのだろう。
青臭いことである。

投稿数が1500を超えているため「あつこのnoteの歩き方」を説明しています。 https://note.com/atsuko_writer55/n/n30e37e8ac4dc マガジンをフォローして、もっとあつこのnoteを楽しんでくださいね。 noteのお友達、大好きです!