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今さら入った大学で、自分の時間を守り抜いた

●合格通知が来た

「今さら大学に入ってどうするの」と母は言った。

2010年1月のことだった。その時私は50歳。
ある大学の通信教育課程の合格通知を受け取った。

私は介護に振り回されていた。

母は生活全般において、ケアが必要な状態だった。
他人に家の中に入られることを嫌がり、
訪問介護は「恥ずかしい」といって追い返した。

食事や洗濯、お風呂の見守りまで
すべて娘である私がやることを要求した。

食べ物の好みもうるさく、
気に入らないものはおなかがすいていても食べなかった。
掃除機のかけ方もこだわりがあって、適当にはできなかった。

父が亡くなり、
心理的支えを失った母がかわいそうで、
出来るだけのことをした。
その結果私がすべてをやるのが
当たり前になってしまった。

いつもイライラしていて、いきなり叫びたいような気になった。
逃げ道がどこにもなかった。

夫からは、
「おかあさんは、
自分が沼にズブズブと沈んでいくのが怖くて、
あつこも道連れにしようとしてるようにみえる」
といわれた。

娘のはるちゃんが通う大学のホームページをチェックしているとき
通信教育課程のページを見つけた。
文学部、経済学部、法学部。
必要単位取得数も、教授の顔ぶれも通学課程と一緒だった。
こんな学びの方法があったのか。

わたしは短期大学卒業だった。

もう一度学びたい。純粋にそう思った。
学ぶことで自分だけの時間が持てる。
さっそく課題の文章を書いて出願した。

母にしてみれば
自分の面倒を見るはずの娘が
定期的にいなくなるのだから、
たまったものではない。

「私は勉強したいの」

母の反対を押し切って入学した。

●失敗続き

法学部に入学した私は失敗続きだった。

通信教育課程では
1,まずレポートを提出
2,それから大学で科目試験を受ける

レポートと試験の両方が合格してはじめて単位が取得というルールだった。

レポートで失敗

レポートではさんざん失敗した。

・提出の締切日を間違えて、試験が受けられなかった
(日曜の消印有効なのに翌日の月曜に出した)。

・不合格レポートの再提出の有効期間(6か月)を忘れていて、無効になった。
この場合試験が合格していても,
最初からやり直しになる

•連続3回、同じ課題のレポートに落ち続けた。
新たなレポートを提出するときに前のものも添付が必要。
大きなダブルクリップと輪ゴムで留めた。
規定の封筒には入りきらず、大きな封筒で送る羽目になった。
(4回目でようやく合格)


科目試験で失敗

・時計を忘れた(教室には時計がなかった)。
しかも2回。
1回目は大問が3つあり、時間配分できなくて終わった(落ちた)。
2回目はちょうどキャンパスに娘のはるちゃんがいて、
直前に時計を借りた。助かった。

・学生証を忘れた(事務局に直前に再発行してもらった)。

・六法全書のみ持ち込み可だったのに、その肝心の六法を忘れた
(アンチョコがはさまっていないか持ち込みのチェックがあった。
係員に「六法全書を忘れました」といったところ苦笑いされた)。

・ペン書き必須(消しゴムが使えない)の試験で、ボールペンを忘れた。
(普通の試験は鉛筆でかけるので書き直しができるのだ)
自己申告してボールペンを借りた・・・・。

私は追い込まれないと動けない性格なので、
いつも締切間際に馬車馬のように勉強して、
レポートを書いて、
試験を受けていた。

ゆうゆう窓口(郵便局の夜間受付窓口)とお友達

レポート締切日の夜11時半過ぎに
ゆうゆう窓口に駆け込んで
「すみませんが、いまここで消印を押してください!」と
迫力ある口調で
毎回、局員さんにお願いしていた
レポートが締切日消印有効のため)。

局員さんも「はい、押しました」と言って、
胸の前にレポートの入った封筒を持ち、
押した消印を私に見せてくれた。
卒論もゆうゆう窓口に提出だった。
きっと郵便局では
「あのおばさん最近来ないね。ああ、良かった。」と言っているはずだ
(その節は本当にお世話になりました)。

●夜の街灯りの中をスクーリングにむかう

9月から12月にかけて(およそ3か月間)
先生から対面式で授業を受ける夜間スクーリングがあった。
(先生から直接教えてもらえるって、ほんと貴重なこと。
そう10代の私に教えたい)
3年目には、月曜から金曜まで講義を取って週5日に増やした。

学割で購入した定期がまぶしかった。

スクーリングに行くのでも、
母にお夕飯を食べさせて、
お風呂に入れて、
おむつをさせて、
家のことをすべて済ませてから、
ぎりぎりの時間に出かけていた。

暗くなりかけた道を大学へと
うきうきとした気持ちで向かっていた。

ここからは私の時間だから。

統計学がわからなすぎて、公式をただ丸覚えして終わった。

行動経済学では
居眠りしないために、わざわざ一番前の席に座った
(これはかなり有効で、
それ以後私はできるだけ前の席に座り続ける)。

日本法制史の最後の授業では
先生が通信生にあたたかいエールを送ってくれて
思わず泣きそうになった。

スクーリング最終日の試験では
まずテスト用紙の裏に
覚えてきた公式や事項を全部書き出した。
そうじゃないと、頭からこぼれて
どこかに行ってしまいそうだった。

レポート、試験、夜間スクーリング、夏季スクーリング、
それぞれいろいろあったが、
一番の難関は卒論だった。 
ドッタンバッタンしながも単位が充足し
(4年めに入ったところ)
とうとう卒論に挑戦する時がやってきた。
教授に面と向かっての卒論の指導は
半年に一回しか受けられない。

●第1回目の卒論指導でいきなり不合格

それなりに準備した初回卒論指導。
教授はふんふんと話を聞いたあと
「まあ、もう少しかな」
といって書類に印鑑を押さなかった。
予備指導決定だ。

予備指導とは、
本指導を受けるだけの基準にまだ達していないと
教授から宣告されること。
ひらたくいえばやり直し。
(こんな内容じゃダメ、出直していらっしゃい)

私の知ってる範囲で予備指導になったのは私一人で
本当に不甲斐なく思った。
まあ、私が甘かったのだ。
半年後の第2回目で、ようやく卒論指導を受けることができた。

半年に1回のチャンスを逃すわけにはいかないので
(ふつう卒論指導を3回程度で、卒論の提出許可が下りる
・・・教授によりずいぶん違うが)
キャスター付きスーツケースに資料を全部入れて持って行ったり
アドバイスはその場でぜんぶ書き留めたりした。

第4回目で提出許可が下りる。
一言で言って・・・私けっこう頑張った。

●口頭試問で論争に

卒論の提出の後には、最後の試験である口頭試問があった。

その日初めてお会いする副査の教授から
容赦なくいろいろな質問がとんできた。
予想外の質問もあり、論争になってしまった。

もう、これは落ちたと思った。
私の指導教授は脇でニコニコして聞いているだけだった。

なんだか悔しくて
自分の議論の根拠を
帰りに大学図書館に寄って探した。

結果を文章にして、すぐに郵送した。

でも、意外なことに気が付いてしまった。
論争することはたいへんだけど、けっこうおもしろいっていうことを。
もう一度ぐらい論争してもいいかな、なんて。

そんなこんなで、
通信教育課程の日々は、山あり谷あり
スリル満点な5年間だった。
気が抜けてしまったり、ワクワクしたり。

勉強してる間は介護のことを一切忘れていた

●まぎれもなく私の時間だった

家に帰れば、
母のオムツ替えから食事の仕方まで
よくもまあ、いろいろなことでけんかばかりしていた。
白髪も増えたし、シワも増えた。
(つらいことがあると、一晩でほんとに白髪になるのだ)
年令より老けて見えていた。

でも私は介護だけの人じゃなかった。
18歳から70歳以上まで
いろいろな年齢層が集まる
通信教育課程の学生だった。

レポートを仕上げたり、
試験を大学に受けに行ったり
スクーリングを受けたり、
学食でご飯を食べたり、
単位の取り方で話をしたり。

先生の講義を聞いて新しく学んだことはたくさんあった。

地学のプレートテクトニクス。
日本の地震が多い理由は
4つのプレートが
押し合いへし合いしているからだなんて知らなかった。

日本政治史では、敗戦後
映画の内容から子供の歌までアメリカの指導のもとに変えられていったことを知った。
やっぱりこの世の中は、知らないことであふれているのだ。

●通学課程と一緒の卒業式

2015年3月、
私は通学課程の若い学生たちと一緒に卒業式に参加していた。
卒業許可が下りたのだ。
私の大学では、通信と通学を同等に扱う。
壇上で卒業証書を受け取るとき、思わず震えた。

ふたを開けてみると、私の卒論は高く評価されていた。
マジですか(古い)。

「わたしの論文作法」なんていう短文も
その後、通信の機関紙に投稿した。
1年間に3人の学生がそれを書く。
毎年先輩方の文章を読んでいたので
まさか自分が書く立場になるとは。
なんだか不思議だ。

はるちゃんが(わたしより2年前に卒業していた)
わたしの卒業証書を見て
「ああー。ママと私、同じになっちゃった」とつぶやいた。

どういう意味だ。
「もっとやれたはずじゃない、試験だって。
卒論だって。」
ハイ、おっしゃるとおりです。わかってます。
追い込まれないとやらないから。
そのあたりは今後の課題。

こうして卒業した私の心の中には
ひとつの思いがあった。

ここまで出来たんだから、私は大丈夫だ。

きっとこれからもうまくやっていける。
そんな根拠のない自信を
たくさんもらった通信教育課程だった。

介護で我慢を重ねていた。
うちの中が暗かった。
いまとなってみれば
母も自分の動かない体をどうしていいのかわからなかったのだろう。
そう、いまだからわかる。

1日5分でもいいから自分の時間をもちたい。
ケアマネさんにもずいぶん相談した。
でも、結局は自分が動くしかない。

自分の思いや自尊心を守る。
まさに大学の通信教育課程は
私の自尊心と思いを守るための学びだった。

母の世話をすべて済ませ、
玄関の扉を閉める。

暗くなりかけた道を大学に急いで向かう時の、
晴れやかな解放感を懐かしく思い出す。

夜の闇が温かく私を迎えてくれた。
ふかぶかと深呼吸したいほどの解放感。

挑戦することは大事。

当たって砕けることも大事。

我慢ばっかりしない。

何をしたらいいかわからない時は、
なんでもいいのでまず一歩を踏み出そう。

正解なんて、誰もわかっていないのだから。

大学卒業までに支えてくれた教授、友人、家族、
きっかけを与えてくれた母、

すべての人たちに感謝して、私がここにいる。

#我慢に代わる私の選択肢

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