ひいばぁば、おくちくろいね
母は96歳になる。
現在、要介護4で有料老人ホームに入っている。
ほぼ寝たきりで移動は車椅子だ。
元気な頃は歯のケアをきちんとしていた。
夜、寝る前のお風呂場で歯ブラシを使い、あわせて歯間ブラシも使っていた。
ところが、老人ホームに入ってから、歯磨きを嫌がるようになった。
職員さんが「歯磨きをしましょう」とすすめても「あとでやります」とあからさまに嫌な顔する。
口臭も出てきて、面会に行くと息の臭さが気になった。
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そんな時、ひ孫のたっくん(5歳)がお見舞いにやってきた。実に母と91歳差である。
たっくんは、車椅子で面会室に入ってきた母の顔を見るなり、こう言ったのだ。
「ひいばぁば、おくち、くろいね」
くちびるが黒かったわけではない。
歯磨きを嫌がっている母の歯は、1本1本に黒い筋ができていた。汚れが溜まって、色がついてしまったのだ。
幼稚園児であるたっくんには「おくちがくろい」と見えたわけだ。
「たっくんのおくちはしろいよ」
とどめの一言が続いた。
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面会の次の日から。
あんなに嫌がっていた歯磨きを母はするようになった。
会うのをとても楽しみにしているひ孫。
そんなことを言われては、動くしかなかったのだろう。
母の歯は少しだけ白くなった。
ケアマネさんに「さすが、ひ孫のパワーはすごいですね」
と言われたくらいだった。
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ところが、である。
1月ほど経つと、また母の歯は黒くなっていった。
口臭も戻ってきてしまった。
「なんで歯を磨かないの」
思わず面会の時に母を責めてしまう。
「歯みがきなんかいいんだよ」と答える母。
せっかくの面会が嫌な気持ちになって、けんか別れになった。
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ふと気がついた。
母の手首が異様に細い。
現在の体重は36キロである。
元気なときには70キロを超えたこともあったのに。
「お母さん、歯磨き、大変なの?」
聞いてみたが、母は黙るばかり。
その沈黙が、歯磨きが負担になっていることを感じさせた。
母は寝たきりになってから、かなり痩せた。
筋肉も落ちた。腕を伸ばしてみると、皮ばかりがだらんとぶら下がる。
まさに、骨と皮状態だ。
歯磨きをするには力は要らない。
昔あったようなゴシゴシ磨きは推奨されていない。
でも、最低限の力は必要だ。
歯と歯茎の境目に、ブラシを細かくふるわせるような磨きかたは母にとって大変な作業だったのだ。
力がないうえに、細かい作業も苦手となっていた。
幸いなことに入れ歯は3本だけで、残りの歯はまだある。
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文句を言うばかりで想像力が足りなかった。
反省!
さっそくケアマネさんに相談。
週に1回、火曜日に訪問歯科をお願いすることにした。
老人ホームの部屋に歯科医師と衛生士が来てくれる。
気分が乗らないときには「今日はやりません」と追い返すこともたびたびあった。
ケアマネさんから「自分の意思がはっきりしていらっしゃるんですね」と言われて、訪問歯科の先生に申し訳なく思った。
そんな中でも、月に1回か2回はプロの手で仕上げ磨きをしてもらえる。
街の医者のようにその場で歯を削ったりはできないが、何かあったときには連絡をしてきてくれる。ありがたい存在である。
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母の歯は、黒い縦縞の汚れは消えてきた。口臭も前よりはマシになった。
面会に行った時、ぐうぜん歯科医師と会って話をした。
「歯の健康は体の健康に直結します。特にお年寄りはそうなんですよ」
なぜですか?
「きちんとものが噛めないと栄養が取れません。体が弱ってしまいますね」
ああ、そうですね。
「歯のばい菌をそのままにしておくと、体に良くない影響を与える場合があります。心臓の手術をするときには、虫歯をきちんと治さないといけないんですよ」
知りませんでした。歯は大事なんですね。
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そうか、歯の健康を守るためには、プロの手を借りることが欠かせないのだ。
母を通じた経験から、私は学んだ。
振り返ってみたら自分もそうだ。
歯磨きしよう、デンタルフロスやろうと思いながら、ついつい適当になってしまう。
ミントの香りの歯磨き粉で、ささっと磨くだけ。
仕事で疲れ、家事で疲れ、気がつくと歯が汚れている(さすがに歯が黒くなるところまではいかないが)。
こうして、私は3ヶ月に1度は歯医者を訪れるようになった。次回の予約もその場で入れてしまう。
器械を使って歯垢を落としてもらうと、気持ちがすっきりする。舌で歯に触ってみて、そのツルツルに満足する。
先日は歯科衛生士に汚れが残りやすい部分を染め出してもらった。自分に合った磨き方を結果を踏まえて指導してくれる。
なかなか上手くならない。歯磨きは奥が深いのだ。
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歯の健康を守るためには、日ごろの歯磨きとプロ(歯医者)のケアが両輪となって成立することがわかった。それを教えてくれた母に感謝だ。
今日も歯磨きがんばろう。
母のために、自分のために、そして家族である夫のために。