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エルヴィス もしくは夢の裏側

日本ではあんまりヒットしなかったらしい映画「エルヴィス」 個人的にはこのタイミングで観ておくべき作品だったとの感が強い。劇場に足を運んでおいてよかった。総じて良い作品部類に入るだろう。オスカーにかかるかは微妙なセンだが、このクオリティまで達しているならオスカー云々なんてどうでもよい。文句なしだ。音楽の神に愛されたとしかいいようのない、稀代のアメリカンドリームの体現者たる青年の物語。薬の過剰摂取によってこの世を去ったことはことに有名で、MJことマイケル・ジャクソンの死の際もよく引き合いに出されていたため我々世代にもなじみ深い。ちなみにMJが本作にも登場するエルヴィスの愛娘と結婚していた事実も相まってアメリカ人の中では、エンターテインメントの光と影的な悲劇として十把一絡げとされている感もある。そして本作だが、非常にセンシティブで、そしていつの時代のも通じるエバーラスティングな精神に則った作品である。

いわずもがな、監督のバズ・ラーマン節を十分に堪能できる作品であることには間違いない。むしろ期待以上。彼特有のゴージャスで眩い輝きとその裏側に潜むひっそりした静けさは、まさに精神の死と肉体的な死にただただ向かっていくという彼特有の人生賛歌だ。諸行無常と見せかけての「美こそ永遠なり」という哲学。それは我々日本人こそが大好きな「儚いからこそ人生は美しい」という清々しさ。そうそう、俺も好きだぜ、バズ・ラーマン。

一方、今回はそういう、一種センチメンタリズムだけに流されない彼の硬質な決意めいたものも感じた。そうなのだ。故フレディの名言は、彼の過去作品「ムーランルージュ」興行主によって叫ばれるセリフ、"SHOW MUST GO ON" の精神は、いつだって形を変えて良くも悪くも人々をドライブさせるが、今回はそれが前向きに響く。今こそは輝く星が見えないことを惜しんで切なく涙しているだけにはいかんのであるという、なんか目が覚めちゃった的な新生バズ・ラーマンもしくは製作側の心意気は感じられたし、これには深く敬意を示したい。

その意味でこの作品は、まさに今観るべき作品なのだ。公開時のプロモーションは完全に懐かしのスターよもう一度みたいな、団塊世代の青春賛歌なのか、みたいな展開をみせていたが(ちなみに私にはちゃんと刺さって劇場で観たので、完全に失敗しているとはいえない。)大ヒット作「ボヘミアンラプソディー」よりずっと「今」観るべきだ。(注※そういう意味ではボヘミアンラプソディーはいつみても同じ感慨を抱かせるであろうその意味での立派な成功作ではある)

冒頭で「今観てよかった」と書いた。そう思うのは今が2020年の世界的コロナ禍の中で勃発したジョージフロイド事件に端を発したBLM運動のうねりを目の当たりにした後であり、極東島国に暮らす、ぼんやりさんの私にも非常にわかりやすい形で多くのことが理解できるだけの情報が入ってきた後だからだ。本作の前に「サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)」を見ておけたことは本作の理解をするのにかなりの功を奏したといわざるを得ない。本当によかった。エルヴィスという経済的に恵まれない青年とその音楽が爆発的に支持されるの至る時代の背景やその一方で本当の成功には至ることなかった才能ある数々の黒人エンターテイナー(ちなみに本作「エルヴィス」においては、特にマヘリア・ジャクソンという人物の存在を知っているかいないかの理解の差は大きい。)が目指したものとその夢のあと。(今はそう言い切るのが適切かつ礼儀正しいであろうと思う)そして2020年のBLM運動勃発(という表現がふさわしい。)までの軌跡を目の当たりしているのが今の私であり、世界である。

作品に話題を戻す。エルヴィス役の「オースティンバトラー」はなかなかの力演で非常に素晴らしい。大変な好演だと思う。パフォーマンスは完璧だと思うが、惜しむらくはエルヴィス自身の生歌へ差し替えされていたら、とつい思ってしまう。全編ほぼ生でクイーンの楽曲が聞けるボヘミアン・・・とはここでも対照的だ。権利関係の複雑さ・・・というかここでもどうせ経済合理性の云々のせいに決まっているのだが・・・はいつだって結局はいい結果を生まないことを証明した。また、個人的には評判の高いトム・ハンクスの本作での名演については評価を避けたい。トム・ハンクスだとどうしても憎み切れない、悪い奴にみえないという一種の功罪がそこにある。ここはストーリー上、普通にイヤなやつ!と片付けてしまいたかった。その方が受け止める方にはシンプルだから。でも実際の話、本物の「大佐」という人物自身が、やはり中々にに複雑な人物であったようで、このキャスティングはそのあたりも意識したところだったのだろう。悩ましいところであるが、このへんの掬い上げや配慮はバズ・ラーマン作品ならではかもしれない。

本作ではラストしてにようやくエルヴィス本人の生の歌声に触れることができる。映像もご本人だ。第1声としてはおお、明らかにラリってる、という印象なのだが一瞬で空気を変える。鳥肌のたつほどの力のある祈りにも似た琴線に触れる歌声である。神々しいといってもいい。おみそれした。当時の彼自身はもう自己の精神的には死んでいるも同然だろうに。しかしだ、やはりそこには「愛」を感じるのだ。これはいわゆるエゴやナルシスティックスだけで成り立つとは思えない。

そう、本作は「そのうちこの罪は償って帳尻合わせるつもりなんだけど、なかなかそうもいかなくてね」っていってるうちに血が止まらなくなっていく人々の苦闘の物語でもある。けど、バズ・ラーマンは囁く。本当に罪深いのは「君」だった訳じゃない、と。そして自己や自我が死んでしまった後にも「祈り」の精神は生き続ける。むしろその後にこそ力をもって輝くといってもいいのかもしれない。

終わりに寄せて、本記事を書くにあたってエルヴィスの娘、リサ・マリーの最近の動向の記事を読んだ。なかなか辛い感じの様子なので正直悲しくなったから作品感想の締めに、そっと彼女の心の平安を祈りたい。「うまくいってないのは君のせいじゃないよ」と。極東の島国から。






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