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運転手を責めても何も変わらないー大津の事故に思うこと

悲惨な交通事故が続いているような感覚があります。単なるメディア・バイアスかもしれませんが。しかし、バッシングをしても何も変わらないのです。本日は先日の大津での園児死亡事故をもとに、私が感じていることを書きました。

8日午前10時15分ごろ、大津市大萱(おおがや)6丁目の丁字路の県道交差点で車2台がぶつかり、うち1台がはずみで保育園児の列に突っ込んだ。滋賀県警によると、近くのレイモンド淡海(おうみ)保育園に通う伊藤雅宮(がく)ちゃん(2)=同市大江5丁目=と原田優衣(ゆい)ちゃん(2)=同市大江2丁目=が死亡。男児(2)が意識不明の重体となっている。ほかに2~3歳の園児10人が重軽傷、引率していた保育士3人も軽傷を負った。

まずは、今回の事故で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、怪我を負われた方をはじめとした関係者の皆さまの早期のご回復をお祈りします。

保育士・保育園への声

さて、今回の事故については一つの大きな輪が広がりました。「保育園」や「保育士」に対するあたたかい意見の輪です。

今回の事故では、保育園側の過失は非常に考えにくい状況だったそうです。そのような中ですぐに会見を行ったこと、会見内での園長先生の涙、また、記者の質問が不適切なものであったことなどをきっかけに、メディアへは多くの批判が集まり、同時に「保育士さんありがとう」というハッシュタグで、保育士さんを支えようという動きが広まりました。

目の前で園児の子が亡くなり、傷つき、また保育士の方も傷つきました。その場にいた人にとっては、一生のトラウマとなりかねません。園児の子や保育士さん方へのケアは絶対に必要だと思います。もちろん、ご遺族の方へのケアも必要です。このような状況で、保育園や保育士さんを責め立てずに支えようという大きな輪が広がっていたことは、一つ良かったことだと思います。

運転手への声

しかし、Twitter等で賞賛され、拡散されたツイートの中には「矛先は保育士じゃなくて運転手に向けるべきだ」「悪いのは保育士じゃない。運転手だ。」という趣旨の声も少なくありませんでした。保育士に矛先を向けるべきでないはそうだとして、本当に運転手は社会的にバッシングを受けるほど悪かったと言えるのでしょうか。

報道で言われていることは「よそ見」と、その結果としての「回避」のみです。まず、園児たちの列に突っ込んでしまったのは「回避」した方の車だといいますが、事故を回避しようとする行動は問題なのでしょうか。再現CG映像などを見ればわかりますが、これはかなり無理のある意見だと思います。

では、「よそ見」をしていた車の方を断罪するとしましょう。しかし、「よそ見」を一切しない運転手などいるのでしょうか。運転中に会話をしたり、周りの景色に目を向けたりすることは、運転への集中を阻害する「よそ見」だと思いますが、ごく当たり前に行われていることだと思います。

実際には、多少の「よそ見」をしていても事故が起こる確率はわずかだと思いますし、日頃から運転されるドライバーの方も自分の胸に手を当てて考えてみたほうが良いのではないかと思います。おそらく、少なからず「よそ見」の心当たりがあると思います。

さて、今回の事故を引き起こした「責任」は運転者にあると思います。同時に子どもを守れなかった「責任」は監督者であった保育園側にあると思います。ただし、そこに責任があるからといっても、私刑のように断罪されるべきものかと考えれば非常に難しい話だと思います。どちらの責任にしても、明らかに悪いことをしたとは言いがたいレベルの話です。

もっとはっきりと書けば、今回の事例は偶然が重なり合った「不幸な事故」と言った方が適切だと思います。誰にでも起こりうることです。無論、ご遺族の方の心情としてそれでは納得できないというのは承知しますが。

ところで、先ほど「目の前で園児の子が亡くなり、傷つき、また保育士の方も傷つきました。その場にいた人にとっては、一生のトラウマとなりかねません。」と書きました。ここで言う「その場にいた人」というのは、園児の子たちや保育士さん方やご遺族の方のみではありません。目撃者であったり、何より事故を起こした当事者についても含まれています。ケアが必要になるのは、今回の事故に様々な形で直接的に関わることになったすべての人であると思います。

ですから、運転手の方に対しても、保育士の方に向けたような、あたたかさが必要なはずです。あたたかくすることに抵抗があれば、せめて攻撃はせずに黙っているという姿勢が必要ではないでしょうか。

また、事故を起こした運転手側の視点を知ることも大切ではないかと思うので、この記事を紹介しておきます。交通事故というものが、いかに多くの人の人生に大きな影響を与えるか、そして安易に運転手をバッシングするという想像力のなさが何を生むか、そんなことを考えさせられる記事です。

池袋での事故の話題の時にもnoteで書いたことですが、バッシングをしても事故は減りません。こうしたバッシングは、一時的に自分の気持ちを満たすでしょうが、一方ではあなたの知らない「誰か」(今回でいえば運転手の方)をみんなで揃って傷つけることにしかなります。こうした行為は、いわゆる「いじめ」と一緒ではないでしょうか。

池袋の事故についてはこちらのnoteをご参照ください。

去年の記憶

このnoteを書きながら去年起こった二つの出来事のことを思い出しました。

一つはおよそ一年前になりますが、「日大アメフト部悪質タックル事件」です。この事件をめぐっては、選手への大バッシングに始まり、最終的に監督や日本大学という大学へのバッシングへと移行していきました。

警視庁が11月に「元監督の指示はない」と判断したことをきっかけにしたAbemaTVでの報道を紹介します。記事の中での、アナウンサーの小川彩佳さんが述べている言葉が印象的なので引用しておきます。

騒動の発生当時、『報道ステーション』のサブキャスターを務めていた小川彩佳アナウンサーは「もちろん客観的な事実に基づいて報じる心がけをしていたつもりだが、最初にタックルをした選手が会見を開いた時の印象が鮮烈だったし、遅れるようにして開かれた内田前監督と井上前コーチの会見の見え方、語られた言葉が多くの対比を感じさせるようなものであったために、そこに引っ張られてしまっていた部分があったかもしれない。背景には複雑なものがあったかもしれないが、シンプルな勧善懲悪の構図で報じてしまっていた部分があったのではないか、ということについては個人的に否定できない。視聴者の方々から寄せられた意見も、監督とコーチを糾弾する意見が圧倒的に多かったし、メディアが片棒を担いでしまった部分もあったと思うので、今回の警視庁の結果についても、しっかり報じていく責任があると思う」と話した。

そして、もう一つは11月。「BTS」という韓国のアイドルグループが起こした問題のことです。こちらの記事では韓国エンタメに詳しい松谷創一郎さんのコメントが紹介されています。

「ネットには、謝罪するかしないかということ自体が一人歩きする悪いところがあります。『謝ったら終了』みたいな言い方もある。その反対には『謝らせたら勝ち』という感覚があるんですね。でも、謝罪するかしないかだけを捉えて話が進んでいくのは、重要なことではありません。そうではなく、なぜそれがダメなのかを丁寧に考える必要がある」
「被爆者団体側も、『謝罪したら終わり』ということを求めていません。昔から(同様の問題が起きた時にも)そうですが、喧嘩をするのではなく、ちゃんと対話をして理解を深めていくという態度を彼らも求めているんです」

「悪い人はこいつだ!」と決めつけた大量のバッシングは何を生んだのでしょうか。日大アメフト部の当時の監督は心労で入院しました。後に、不起訴となっています。さて、元監督の「心労」は本当に必要だったのでしょうか。それを選手が望んでいたのでしょうか。心労にさせなくとも、償いの道はあったはずではないでしょうか。BTS問題も同様です。結局、問題の本質はなんだったのか。謝罪を受け入れた団体にまでバッシングが広がり事態は混沌とし、結局「謝っただけ」で終わってしまいました。本当にそれで良かったのでしょうか。

この社会はまったく何も変わりません。過去を見れば似たような事例は山のようにあります。目に見える「責任」には、みんなで一緒になってバッシングするのに、いざ自らの発言が誰かを傷つけ、心労に追い込んだり、問題の本質的な解決を拒んだとしても、そうした「責任」は放棄して誰もとらないのです。

事故を減らすために

最後に「事故を減らす」という観点を考えてみたいと思います。

今回のような、偶然の重なり合いが生んでしまう「不幸な事故」を減らすためには、バッシングではなく、意識的な改革でもなく、物理的な対応が必要だと思います。そういった意味で(遅いと思うところもありますが)警察庁がすぐに動き出したことは嬉しく思っています。

ここでは、ノンフィクションライターの窪田順生さんの記事も紹介しておきたいと思います。

窪田さんは、日本の「歩行者軽視」という文化について批判し、歩行者が亡くなる事故が先進国の中でもダントツに多いことを指摘しています。その上で、次のように述べています。

だからこそ、歩行者軽視を変えなくてはいけない。歩道の広さを見直し、ガードレールを整備する。子どもの多い通学路などは、時間帯によって進入制限や速度制限を設けることも必要だろう。

おわりに

今回の一連の報道を見ている中では、保育士さん方へのあたたかい声とは裏腹に「運転手」へのあたたかい声は本当にわずかだったなと思います。さらに、メディアへのバッシングもかなりありました。池袋事故と絡めた意見も多くありました。解決を訴える意見は決して多くなかったと思います。

ですが、本稿で見てきたことが現実です。こうしたバッシングは何も生んでこなかったのです。そして、これからも何も生むことはないでしょう。

さて、私たちにできることは何でしょう。
私たちがすべきことは何でしょう。

確かに、物理的な事故対策に直接関わることは難しいかもしれません。しかし、私たちがそうした対策を願う声を強くあげれば、行政を動かすことにつながるかもしれません。また、誰かを敵視した過度なバッシングをやめれば、傷つく人を一人また一人と減らすことにもつながると思います。支援の必要性を訴えれば、そうした専門職の方が動くことにつながるかもしれません。

誰かを攻撃して快感を得ることをやめてみませんか。
そして、今回のような不幸な事故の撲滅を目指し、物理的な対策の必要性を強く訴えてみませんか。
まずは、そこからだと私は思います。


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