病院で食べるクリスマスケーキみたいな幸せ

ちょうど去年の今頃くらいのこと。

12月24日、19時。11階の窓から見える夜景は、心なしか昨日よりもはしゃいでいるように見える。
クリスマスイブの金曜日の夜、私はひとり目の前に吊り下げられている白いカーテンを見つめながらプラスチックケースに入った切れ端みたいなケーキを食べていた。
泣いていた。パサついたケーキが悲しかったからではない。嬉しくて、泣いていたのだ。

12月の中旬、年末に緊急入院することが決まった。
入院前検査を終えた私はそそくさと荷物をまとめ、入院する日を震えながら待っていた。
今回の入院では人生で初めて手術をすることになっていたのだが、それがとほうもなく恐ろしかったからだ。毎晩、眠ると必ず悪夢を見た。
恐怖のあとには、激流のような悲しみがやってきた。
12月22日から入院なので、クリスマスの予定も、年末に控えている親友の結婚式も、地元への帰省も、
1年間これのために頑張ってきたといっても過言ではない楽しみな予定が泡のように消えた。
いま、不幸ランキングなるものが発表されたなら、私はけっこう上位にランクインするのではなかろうかと割と本気で思っていた。

入院の日はやってきて、出勤する人でごった返す電車に乗って病院へ向かった。
入院当日に手術が行われる予定だったので、病院に到着すると看護師さんたちが点滴や注射を打ったり、
テキパキと準備をすすめてくれた。
手術室に向かう途中、看護師さんが手を握って言ってくれた「大丈夫」は、今までのどの「大丈夫」よりも深く心に染み渡った。

無事に手術は終わった。

病院で一人寂しく一年で一番うわついた季節を過ごしていた。
病院にはほんとうにたくさんの人がいる。
私がいた部屋は大部屋だったが、身寄りのない人や痛みで四六時中うめいている人、
若くして大きな病気になってしまった人。
誰が、いちばん悲しいとか辛いなんて、比較することはできない。
みんなそれぞれ、悲しいし辛い。

看護師や医師は、私を含めた患者一人ひとりに献身的に向き合ってくれた。
私が入院していた4人部屋にいる斜め向かいのおばあさんは夜になると家に帰ろうと病室を抜け出してしまう。その度に担当の看護師さんは優しく「今〇〇さんは入院中なの。帰ったら、先生が困っちゃいますよ。」と諭して、手を引いて病室まで連れ帰ってくる、
隣のおばあさんは痛みでずっと呻いていた。
昼夜問わず看護師さんはやってきて、優しく励ましながら背中をさすっていた。
担当医の先生はベッドの近くまでやってきて丁寧に診察をしていた。
病院で働いている人々は、患者の命を救うために死に物狂いだ。たくさんの患者の、痛みや恐怖、苦しみに四六時中触れることは想像もできないほど負荷がかかることだろう。
それにも関わらず、患者たちの心をも救おうとしていた。
そして冒頭のクリスマスケーキに病院の人々の心を救いたいという思いの真髄をみたような気がした。
「少しでもクリスマスを感じてくれたらいいな」というあたたかな思いが伝わってきた。
私はそれを受け取って、幸せを感じた。

病院でクリスマスを過ごして、思ったことがある。
私は今まで数多くの「幸せ」を見落としてきたのではないだろうか。
それは世の中に流布している「正解の幸せ」以外を幸せと認めていなかったから。
例えば、「クリスマスは恋人とデート」や「仕事では継続的に結果を出し続け、仲間に信頼される」「仕事もプライベートも充実している」「結婚して愛する家族に囲まれた生活を送る」といったような。
特定のシチュエーションにおいて上記のような「正解の幸せ」にあてはまらない状態は不幸だと決めつけていなかったか。不幸な状態はただ耐え忍ぶだけ「正解の幸せ」の状態にもっていくための準備期間だと思っていた。
目をつぶって耐え忍んできたその時間の中にも、幸せや誰かの優しさはあっただろう。
例えば病院でひとり過ごすクリスマスイブ、嵌め殺しの窓からは浮かれた街の喧騒や冬の冷たさすら触ることはできないけれど、病院の人々の粋な計らいでクリスマスを感じることができた。
病気で仕事を長期間休んでいた時期、自分ととことん向き合うことができた。
ひとりでいる時、ゆっくりと本を読み妥協せずに思いを言葉にすることができた。
私は病院で食べるクリスマスケーキみたいな小さな幸せを、見落としていたのだ。

退院すると、年が明けようとしていた。
空気は冷たく、よく晴れた日だった。騒がしい街の音が聞こえる。白い雲を裂く、あたたかな冬の光。
病院の大きな玄関を出て、歩く。
自分の足で、意思で、歩いている。
ここから会いたい人に会いに行くこともできるし、紀伊国屋書店にも行ける、まっすぐ家に帰ることだってできる。
今までは気にも留めなかったような五感の移ろいや些細な自由を噛みしめる。
身体がきちんと動くことや、ただ生きるだけではなく主体的に生きることができるというのは
なんと幸せなことだろう。
幸せかどうかは、それに気づけるかどうかに関わっているのではないかと思った。

目の前にある幸せをきちんと感じたい。誰かの優しさを決して見落とさず、全身で受け取りたい。

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