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2018.07.06 街が水没した日のこと。(3)

07.07 04:50~

悪夢のような夜が明けた。
まずは周囲の状況を把握するべく徒歩で外出。自宅付近のみ軽く散歩する。

自宅の窓から外を見渡せば、岡田小学校付近には多数の車が停まっている。車中泊したであろう人たちが外に出歩き始めているのが見える。
まともに眠れた人はほとんどいないだろう。僕だってそうだ。

そこから東、そして南方面へと目を向ければ、一夜にして変わり果てた
街の姿を確認できた。


街は、水没していた。
端的に言えば、異世界だった。


どれだけ言葉を尽くそうと、僕にはその時の感情を表すことなどできない。

画像中央右寄りの奥にうっすらみえる横長の建物が『まび記念病院』です。

そして雨はいまだ止む気配もない。

07.07 07:00~

07.07 09:00

予想していたとはいえ、ライフラインの断絶はやはり辛いものだった。
ネットについては当面スマホ回線のテザリングでしのぐとしても、
水とテレビは代用できない。
テレビ世代の母親にはこれが堪えたようで、相当手持ち無沙汰にしていた。

水。
限られた浴槽一杯分の生活用水の使い途は、トイレを最優先に決める。
結果、自衛隊の浴場無料開放がくるまで入浴はおあずけとなるのである。
勿論、炊事洗濯など夢である。

そしてこの時間帯になると、ヘリコプターが上空を旋回するようになる。
上空から降りてくる様子が全く見られないのでおそらくはマスコミだろう。

07.07 12:00~

僕は再び散策に出かけることにした。早朝の散歩とは違い、
行動範囲を確認するため可能な限り遠くまで。無論、徒歩で。
母親には
・必ずスマホを携帯すること
・できるだけ外出しないこと
・戸締まりをきちんとすること
それから、
・我慢はせず、食事は好きに取る トイレも自由に使うように
そう言い残して僕は家を出た。

まずは南へ足を向ける。
が、これにはさほど時間がかからなかった。

400mほど進むとこの状態だったからだ。
つまり自宅から400m南が、浸水の境界線ということになる。

引き返して西へ進むも、軒並み浸水。

また引き返し、今度は東へ。
自宅から500mかそこら歩くと避難所の岡田小学校体育館あたりに
辿り着くのだが、途中から路上駐車の列であふれていた。
さらに東進するも、低地のため浸水。

これ以上の調査は無用と判断し、僕は自宅へ戻った。
早く明日からの計画を練らなければ・・・

07.07 14:00~

だがその後しばらくは家族や親戚、知人や会社等からの
矢継ぎ早の安否確認に追われることになった。
自宅のテレビが映らないのでわからなかったが、
おそらく真備町の惨状が大々的に報道され始めたのだろうと予想。

僕はこの数時間の内で「生きてます!」「生きてましたか!」
という挨拶を何度交わしただろう。
冗談でも何でもなく、それだけ深刻な状況だという事だ。
そしてその空気は、地元の知人相手の時にだけは伝わっていた。

07.07 15:25~

「ん?・・・近づいてくる!?」
それまでのマスコミのヘリとは明らかに違う、低空を飛行してくるヘリを発見。自宅の上空をけたたましい音を立てて旋回、飛行してゆく。その後も低空を維持し続け、時折停止状態になる。
「これは・・・」

救助隊のヘリだ。

僕たちが最初に目にしたのは、遠目にもわかる真っ赤な機体。
思わず大声で手を振りたくなる気持ちを抑えて、そっと撮影する。
一台、そしてまた一台。赤青白のトリコロールの機体も確認した。

だが僕たちにできるのは、救助活動の邪魔にならないよう
静かに窓から離れることだけだった。

07.07 18:00~

避難所の岡田小学校にて応急給水受付。
市の給水車が来ているので取り急ぎペットボトルを数本程度、給水してもらう。だがこの時点で、円滑な給水の手段を確保する必要性を感じていた。
つまり容器がないのだ。

明日はそのあたりの確保も含めて、物資の調達に出ようと決めていた。

その日、ヘリの音は、空が暗くなる直前まで聴こえ続けていた。
午前中のヘリよりも遥かに音は大きいが、不快に思うことはなかった。

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