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ぼーっとしてみる話

Aちゃん、体調大丈夫だった?
災難だったね、、、
良くなったのなら一安心!

前回の日記、人生の満足度と許しの話面白かったよ〜
特に許しについては私も別文脈で色々と考えていたところだったので
フムフムと読ませてもらいました。

そして、今回いつものことながらいつも以上に日記を書く間隔が空いてしまったのだけど、私も実は1ヶ月ほど体調不良だったのです。
で、病院に行ったところ「妊娠」していましたとさ。
思わず「こりゃ大変なことになっちまったヨ」と心の中のちびまる子が呟いたよね。笑
腹ん中で新たな人間を一体創っていた代償として(?)、本体の俺がやられてしまっていたようで、1ヶ月ぐらいは心も体も最悪だった。。。
やっと回復してきたから、今全てをキャッチアップしているところ。
という、長い言い訳に付き合わせてごめん。笑

先日初の健診に行ってきたが、産婦人科医が英語で説明してくる(当たり前)から、細かいとこよくわからないまま進行している、これ大丈夫なのだろうか。笑
出産もアメリカでするつもりだが、自分が切羽詰まってる時に英語で意味不明なこと言われたら、助産師のこと殴っちゃうかも。アハハ。

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人生の話に戻ると、そんなわけで現状の私の状況って、数年前の私が想像していなかったことで埋め尽くされており、思い通りで予定通りで想定内!みたいな人生って幻想だと改めて気づかされれるのね。
そんな中で伊藤亜沙さんの本書いてあった「人間はなるべくぼーっと生活する方が良い」という趣旨の一文を思い出した。
何かを決めつけて考えたり、自分の価値観を信じすぎたりすると、守備範囲外の情報や機会をキャッチするチャネルを遮断することになる、それは勿体無いことだから、なるべくぼーっと構えてそれらを遮断しすぎず生活すべし、って話。
私、性格としては常に考えてしまったり、自分の思想に固執しすぎたり、ぼーっとするみたいなのは実はうまくできない人だったりして。
だからこそ、あぁ本当にそうだなと当時妙に納得したんだよね。

歳をとって自分なりの価値観が形成されると、物事にビビッドに反応してしまったり、リスク、違和感、想定外、みたいな負の要素になり得るものには拒否反応が出たりすることが増えると思うの。
それに加えて上述の通り、私は何事にもビンビンに立っちゃうタチだから、あらゆることに反応して疲弊してっていうのを繰り返してきた人生だったけど、伊藤亜沙さんの助言通り、ここ数年は、ぬるっとスルーしたり、まぁいいやとかわしたり、意図的にぼーっとすること増やしているのね。
アメリカで専業主婦して子供を現地で産む、みたいな以前の私であればあらゆる方向から考えられなかったことに対しても、最近のぼーっと修行が功を奏して「まぁなんでも良いか!楽しんでいこ〜」と自分をいなせるようになったよ。

ここまで書いて気づいたけれど、「ぼーっとすること」と「許す」ことは、
結構似ている行為かもしれないな。
そしてこれらは、「執着を捨てること」に帰着するような気がする。
ブッダ曰く、「涅槃(ニルヴァーナ)」への道は、まさにこの執着を捨てることのようだし、やはり私は仏を目指すしかないのかもしれない!
などど、妄言ばかりのZでした〜

Z

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