今日も、自分の名前のハンコを押す
契約書に、自分の名前が入った、ゴム印を押す。
会社としての契約ごとだが、そこには堂々と自分の名前を記載する。
よくよく考えたら、会社間の契約で、自分の名前を書かなければならないのは、世の中でわずかな人たちだ。
僕だって、父から代表を継ぐまでは、父の名前が入ったゴム印を父の代わりに押していた。
僕が家業に戻った時点で、父はメンタル的な体調を崩していたから、僕が入って以降の契約ごとは基本的に僕が意思決定をしてきた。
だから、父の名前のゴム印を押していたときから、僕の意識は既に経営者だった。
そのはずだった。
だけど、昨年正式に代表になって、自分の名前を契約書に記名するようになってから、やっぱり僕の意識はもう一段階変わった。
"実質的に"いくら自分が経営者だと思っても、現実での立場が異なっていると、どうしても「経営者である」というセルフイメージの最後の一押しがない。
今思うと、当時は、自分はもう経営者だと自分に言い聞かせる一方で、対外的にはまだ父が代表だから、何かあったら父の責任だという意識が、僕の中には残っていたように思う。
それが、自分の記名をするようになって、その自己矛盾が解消され、本当に自分の意識と現実の中での立場が一致するようになった。
そうなると、自然と、自分の責任意識、当事者意識というのは、自分がただの従業員扱いであったときより、アップしたと思う。
そうすると、関係者とのコミュニケーションのとり方も少しづつ変わってきた。
前は、「最終的には父の確認が要りますので」なんて他責に聞こえる発言をしていたときもあった。
自分が経営者だと思いながら、現実はそうではないという意識が発言に出てしまっていた。
それが今はない。
僕は責任を負いたかったんだと思う。
自分の土俵で、自分の責任とリスクで仕事したかったんだと思う。
その自分の思いに気づいた時に、「ああ、意外と自分は経営者向きかもな」と思った。
そんなに人とわちゃわちゃするタイプでもない。
交友関係が広いわけでもない。
クリエイティブな才能があるわけでもない。
でも、経営はできる。なぜか、深い確信がある。
『経営者の孤独。』という本がある。
経営者数名に、孤独をテーマにインタビューしていく本で、自分に刺さる文章が多いので、たまに読み返している。
その中で、本の校閲、校正をする事業を立ち上げた、柳下さんという方が、社長だけが負っている責任とリスクという文脈で、下記のような発言をしている。
少し長くなるが、経験から伝わってくる空気感がある文章なので、まるまる引用させてもらいたい。
僕がこの記事で言いたいことは、この柳下さんの発言に集約されてる。
もしご本人に見られたら、後継ぎと創業者は違う、って言われるかもしれないけど(笑)
契約書に事業者として自らの名前を書くということは、自分が売る側であれ、買う側であれ、何らかの責任を負ったということだ。
その話について、誰かが文句を言いたいときに駆け込む場所の最終地点は、会社の代表者として記名したあなただということだ。
その意識は、本当に自分の名前を契約書に書かないと、たぶん深層心理のレベルで理解できない。
僕はそれを経験したから、この文章を読んだときに深く印象に残ったのだと思う。
話が少し脱線するが、経営者が孤独であるってことは、良いでも悪いでもなく、解決するでもしないでもなく、唯々そういうもんだって話なんですよね。
経営者がそれを受け入れれば何も問題ないんですよ。
そのニュアンスも、柳下さんの文章から出ているところも共感でした。
まとまりない文章になりましたが、今回はこれくらいで。
読んでいただきありがとうございました。