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#39 クラブ「哀」編(1)

 彩世は、目を覚ました。見覚えのある天井が見えて、自分が家に帰りついたことが分かった。頭はズキズキと痛んだ。彩世は極力、頭を振動させないようにして、ゆっくりと起き上がると、自分がソファに居ることに気づいた。自分でソファまで来た記憶は全くなかった。壁にかけてある時計を見ると13時を過ぎていた。
「目が覚めたのか?」
声がした方を見ると諭が居た。
「悪い…今日、水曜だったっけ?」
「別に謝らなくていい。頭が痛いんだろ?これ、飲めよ」
彩世は諭からドリンク剤を受け取り、一気に飲み干した。
「今日もお店だろ?何時に行くんだ?」
「…掃除があるから、5時には行かないと」
「掃除が無かったら、何時に行けばいいんだ?」
「……7時半…」
「わかった。俺が代わりに掃除はやってやるよ」
「いやいや、俺の仕事だし、あんたには関係ないでしょ」
諭は彩世を見つめた。
「ひどい顔だな。そんな顔でお店に出るのか?お酒の臭いをさせているホストに女の子が寄り付かないと思うけどな」
彩世は、諭から浴びせられた無情な言葉にいら立ちを感じたが、的を得ていて言葉がなかなか出てこなかった。
「………これまでも、こういう状態でお店に行っていたんだ。もう少し寝れば、良くなる」
「その状態でお酒が飲めるのか?」
「ここまでひどい時は、他のヘルプに飲んで貰ってるよ。あんたの相手はできないから帰れよ」
彩世はソファに横になり、目を閉じた。その直後、唇にやわらかいものが触れ、水が口の中に流れ込んできた。目を開けると、諭がペットボトルの水を口に含んでいるのが見えた。諭は彩世の顔に近づいて口付け、さっき含んだ水を流し込んだ。彩世は、せがむように諭の唇を軽く甘噛みした。
「もっと欲しいか?」と諭は聞いた。
彩世は首を軽く動かした。諭は一瞬、口元に笑みを浮かべ、ペットボトルの飲み口を彩世の口に押し当てた。
「それだけ元気があるなら、自分で飲めるだろ?」と諭は意地悪そうな笑みを浮かべながら言う。
彩世は諭の手からペットボトルを奪うと、思いっきり傾けた。水が一気に喉に入り、彩世はたまらず、せき込んだ。
「ふふっ…かわいいな」
諭は笑いながら、彩世に口付けて彩世の舌を絡み取り、吸い上げる。彩世は、その感触に心地よさを感じて、ペットボトルを落とした。ペットボトルが床に落ち水が辺り一面に散らばった。しかし、二人は全く気に留めなかった。彩世は諭の舌の動きに呼応するように自分の舌を絡めた。二人の口から水音と吐息がこぼれる。諭が先程、発した言葉や態度とは裏腹に熱のこもった口付けをするので、彩世の体は熱を帯び始める。彩世は目を開けて諭と目線を交わすが、しばらくすると、諭は彩世から唇を離した。
「今日は、ここまでな」と諭は微笑みながら言った。
「ホントにあんた、イイ性格してるよ」
諭は彩世の頭を撫で、「とにかく、寝ろ」と言い、もう一方にあるソファに腰かけた。
彩世は諭から背けるように体を動かし、毛布で体を包み込んだ。


 彩世が再び目を覚ますと、諭はいなかった。時計を見ると、8時を過ぎていた。彩世は飛び起きて、携帯で彩乃に電話を掛けた。3コール後、電話が繋がった。
「もしもし、彩乃?」
「あら?彩世、どうしたの?」
「これから店に向かう」
「あんたの代わりに今日、働くって言って、綺麗な顔の男の子が来たのよ。あんな子を知っているなら、私に紹介しなさいよね~」
「…え…誰?覚えがないんだけど」
「髪が長い男の子よ。背が低いのはちょっともったいないけど」
彩乃から男の容姿を聞いて、諭だと悟った。
「……いや、その人は、剛のお兄さんだから」
「え~そうなの?兄弟そろって美形ね。私は断然、お兄さんの方が好みだけど」
「あんたの好みは聞いてないよ。とにかく、これから出勤するから、そしたらお兄さんは帰してよ」
彩世は電話を切り、即座に家を出た。


夢幻は、女の子を連れてクラブ「哀」に入っていく。
女の子をエスコートして、案内した後、ドリンクを作るために席を外した。その間に誰かにヘルプに入ってもらおうと、近くに居た男に声をかけた。
「…悪いんだけど、五番にヘルプで行ってくれないか?…あれ?あんたは…新人?」
「今日だけです。あちらのテーブルで良いですか?」と男が答えた。
夢幻は、その男を何処かで見たことがある気がしてならなかった。
「…どこかで会ったこと、ありません?」と夢幻は聞いた。
「それって、俺を口説いてます?」と男は口元にうっすらと笑みを浮かべて答えた。
「…いや、俺の気のせいかな。じゃあ、頼むよ」
夢幻は華奢な男の肩をポンと軽く叩き、その場を去った。
「夢幻さん、何やってるんですか?ドリンクなら俺が作りますよ」と圭が言った。
「今日の姫は、俺が作るスペシャルドリンクが飲みたいって言うからさ」
夢幻は慣れた手つきでシェーカーにリキュールやジュースを入れてシェイクを始める。その時、さっきの男が以前にゲイバーで彩世と一緒に居た人であることを思い出した。
「圭、今日、入ってきた新人のこと知ってる?」
「いえ、オーナーから体験入店としか聞いてないんですけど。そういえば、指導者がついていなかったような気がします」
「そうなの?俺、その人にヘルプ頼んだんだけど」
「えっ?すみません」
「いいよ。もうすぐ戻るし」
夢幻は、シェーカーからグラスにカクテルを注ぐと、席に戻っていく。遠くから5番の席が見えて、女性の隣に先程の男が座っているのが見えた。遠くから見ても、端正な顔の作りをしていることが分かり、芸術品のように美しいと思わせた。隣にいる女性に目線を移動させると、笑顔を見せている。
「お待たせ」
夢幻は女性の前にカクテルの入ったグラスを置いた。
「それ、俺の愛がいっぱい詰まっているから」と微笑みながら言った。
「ありがとう」
夢幻は、女性の隣に座った。
「俺、外れましょうか?」と男が言った。
「え~行かないで。夢幻は、すぐにどっか行っちゃうから」
「そんなことないでしょ」
「私、諭さん、気に入ったわ」
「わかっていると思うけど、指名替えはできないからな」
「わかっているわよ。言ってみただけ。乾杯しよ」
夢幻と女性はグラスを手に持った。
「ほら、諭さんも」
女性に促されて、諭もグラスを持った。
「じゃあ、かんぱ~い」
夢幻、女性、諭はグラスを合わせた。カツンと軽い音がした。夢幻はグラスを煽り、一気に飲み干した。
それに合わせるように、女性もカクテルを一気に飲み干す。
「うん、おいしい。諭さんも飲んでよ」
「では、いただきます」
諭は女性に向けてグラスを少し傾けた後、全部を飲み干した。
「良い飲みっぷり!もっと、飲んで」
「じゃあ、ボトル頼んでもいいですか?」と諭が言う。
「良いよ~」
「え?ボトル入れてくれるの?」
「うん」
「こちらは、飲みやすいと思いますが、いかがですか?」と諭がボトルを手に女性に勧める。
諭が女性に差し出したボトルは、カフェ・ド・パリという比較的手頃な値段で飲みやすいスパークリングシャンパンだった。夢幻は、諭がこの女性が飲むのが好きということを短時間で理解して、お財布事情も加味しながらお酒を勧めたことに驚きが隠せなかった。諭は、近くに居た圭に声をかけ、ボトルを頼んだ。

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