大阪で生まれた〇〇

正月に実家に帰っていた。
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昨年はコロナだからと言う理由で、帰ってこないように軽くラインで親から促され帰郷せず、2年ぶりであった。帰る道中立ち寄ろうと決めていた店により、食べようと思っていたものを食べ、飲もうと思っていたものを飲んだ。京阪京橋のホームで、フランクフルトとタカラ缶チューハイの京橋最強セットと私が名付けているセットを堪能した。その時ホームから淀屋橋方面に見えた夕日に照らされた車線や鉄の電柱、電線が未来的すぎて死にそうだった。最寄り駅までの京阪沿線の景色が懐かしすぎて泣きそうだった。
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大阪で生まれた、でも今は別の場所に住んでいる。
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実家に帰りかつての自分の部屋に、かつての自分が書いた文章が、手書きのノートや印刷されたA4の紙が、机の上に雑然と置かれていた。私は確かに、映画の脚本や小説めいたものを書いていたことがあった。痛々しくて読めなかった。でも案外読みはじめてみたら、腑に落ちる文章ばかりなのかもしれない。今はまだ脇に置いている。全然整理されておらず、何が何の文章なのかもわからない。
今書いている文章もいつか、何かのきっかけで思い出して、同じように痛々しいものとして取り扱われて、読みたいような、読みたくないようなそんな気持ちに自分をさせて、しばらくの間、脇においとかれたりするのだろうか。

過去の自分は痛々しい。
誰もが思う。「俺は、私は、一体何をしていたのか」
でもまだ読んでいないけれども、当時の私は何かをなんとかしようとしていた。何をかは覚えていないし、どうしようとしていたのかも覚えていないけれど、何かをなんとかしようとしていたことは確かだった。何をどうしようとしていたというのか。はっきりとは思い出せない。思い出せないというか、なんとかしようとしていたその何かは、結局そのとき明確じゃなかったし、その後、十何年か経った今でもまだ継続して明確ではない。
そもそも何かをなんとかしようとする必要なんてなくて、ただ、深く考えずに適当に物事をいなしたり、スルーしていたらよかっただけだろう。
年齢を重ねるにつれて、そういう考え方ややり方にも慣れてきたし、きっとそれは多くの人が選んでいく最適解だろう。

実家の自分の部屋の窓からはここに住んでいた頃とかわらない景色が見えていた。隣の家のベランダと屋根、テレビのアンテナ、遠くに見える山。少しずつ薄暗くなってきてもう夜だった。
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明日の朝にはもう、今住んでいるところに帰るから、それまでにちょっとでもこの痛々しい私の分身を読、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、まないと思う。

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