嘘くさい日々

大学卒業後、私は社会人になり損ねて、仕方なくフリーターとしてバイトをしていたか、バイトすらやる気がしなくて、ニートだった頃、たまたま、近所のスーパーで、小中学校の同級生に会って家で一緒に飲もうということになって、彼の家に行ったことがあった。彼とはその時点で何年も会っていなかったし、本当にたまたまだった。彼の部屋に入ると大きな油絵があって、そういえば、学生の頃も絵が好きで美大に行ったと聞いたことがあったような気がしていた。油絵については確か何も話し合わなかったので、実際そうかどうかはわからないが、少なくともそのうちの一つは彼の自画像のようであった。その自画像と思われる絵の登場人物はこちらに向かって走ってきており、両手を上げていたように思う。
もうこれも20年くらい前のことになってしまって、その時、何を話したのか、ほとんど覚えていないが、彼のその時の主張としては、世の中は嘘くさい。親が言うことも、教えられてきたことも嘘くさい。とのことであった。当時から結構社会不適合的であった私にとっても、それはわかる気がしたので、わりと同意しながら話していたような気がする。
その後、数ヶ月後くらいに彼とはもう一度、同じスーパーで会ったが、その時は一緒に飲もうとはならなかってなんとなく残念だった。

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そもそも人間の歴史とは、人間が人間を統治する歴史であった。
それは時にあからさまで、わかりやすく残酷な場合もあったが、大抵の場合、巧妙でわかりにくく、まるで奴隷は自分が奴隷であることを認識していないかのようであった。

いつも今の時代は特別に良いものであった。前時代は否定され、今回やってきた今の時代こそが正しくて、前時代はいつも間違っていた。宗教改革、フランス革命、新しい支配者と新しい民衆。明治維新、戦前・戦後、、、。

人が人を統治する時、最も必要なものは大義である。
時代が替わる時、以前までの大義は否定され、今回新しく設定された大義が、正しいものとされる。
そして、その大義は、一定の割合の人にとっては、いつも嘘くさかった。
なぜなら、誰もが信仰できる大義などあり得ないからだ。
すなわち、統治にはどうしても嘘くささがついてまわらざるを得ないのだ。

「欲しがりません勝つまでは」も、戦後民主主義教育も、開国も、革命前の思想や社会体制も、革命後の思想や社会体制も、全て誰かにとっては嘘くさかった。

教師の嘘くささ、親の嘘くささ、ヤンキー独特の価値観の嘘くささ、、、教師は学級を、親は家庭を、ヤンキーは自分のチーム(?)を、統率する必要があった。そして、メディアも。メディアが統率するのは、、、。

そして今、、、誰もが思いつく、最高に嘘くさい、、、最高に権威的な方法での統治。

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