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斎藤版西遊記⒖巻を平凡社の完訳版と読み比べてみた

読みましたか?理論社の斎藤洋作の西遊記15巻。
悟空×三蔵のエモ師弟関係がいよいよエモさを増してきたと評判の巻です。斎藤版の西遊記は原作版のエピソードをかなり大胆に改変していることも多く、今回の収録エピソードもけっこうオリジナリティにあふれていて、一体じゃあどこが原作と違うのか、先生は何をお考えになってこのような改変を行ったのか、完訳版と比べながら読んでいこうじゃないかというこの試み。

とりあえず、エピソードをみていきましょう。

最初の山を見て三蔵が不安になるシーン

斎藤版
高い山を見て不安になる三蔵に、「お師匠様には、このわたしがついているのです。今までだってそうだったでしょう」と声をかける悟空。

完訳版
老人からこの先に人を食べる妖怪がいると声を掛けられて落馬する三蔵を、「大丈夫、大丈夫、わたしがついておりますよ」が助け起こす。


この辺は似ている。原作のすぐ落馬する三蔵もかわいいが、すぐ師の不安を感じとって励ましのことばをかける尽くす弟子しぐさあるあるがどちらでも読み取れる。



太白金星が警告してくるシーン

斎藤版
岩の上に太白金星がおり、わかりにくーい言い方で、この先の八百獅陀嶺に住む妖怪たちを倒してほしいと頼んでくる。

完訳版
太白金星が「この先の魔王は恐ろしいから油断するな」と警句をしてくる。


先生は天界は天界の都合で動いているところをわりと皮肉的に描写されることが多いので、その辺を踏まえた描き方になっている。


三蔵との価値観の相違を認めたくない悟空

斎藤版
悟空は太白金星の話を踏まえ、次に出くわす魔王は妖怪ではなくおそらく天界の生き物だろうと検討をつける。しかしはっきり正体を明かされたわけではないし、妖怪として殺してしまえばいい。人を殺せば三蔵は悲しむが、妖怪ならいくら殺しても三蔵は怒らない。三蔵の理屈は悟空にはわからないし、わかりたくもない。


この描写は完訳版にはなくて、完全にオリジナル。
先生の西遊記においては、妖怪出身の悟空という立ち位置をかなりはっきりさせているので、悟空は妖怪を「悪」「下級」と見なすことに嫌悪感を抱いている。しかし、三蔵は妖怪を人よりも下級の存在と考えており、その点では相いれない価値観を持っている。その考え方の相違について三蔵は無自覚である。悟空は自覚しているものの、それを突き詰めて考えることを放棄している。つまり、三蔵との立場の違いを認めたくないということである。
ほうら、だんだん、エモくなってきた。どうして立場の違いを認めたくないんですかね。


思わず「特別な坊さん」の一言に同意する悟空


斎藤版
アナグマの妖怪の前で木を破壊してみせ、力の差を見せつけたうえで三魔王の情報をしゃべらせる。アナグマ妖怪が「特別な坊さん」と言ったときに、悟空はつい「そりゃ、そうだろう!」とあいづちをうつ。最後にもうここには戻って来るなと警告してアナグマ妖怪を逃がしてやる。
 アナグマ妖怪に化けた悟空は、門番を「不老長寿になる坊主の肉の一切れがおれたちにいきわたるわけないだろう」と唆す。門番が友達に言い広めるだろうと予測する場面で、「悟空が知っているなかで、友だちがいないのは、玄奘三蔵くらいのものだろう。悟空と玄奘三蔵は友だちどうしというわけではない」と考える

完訳版 
仲間の妖怪に化けて雑魚妖怪から三大王について聞き出し、そのあとで鉄棒を頭から打ちおろしてぺしゃんこにする。殺した妖怪の姿に変化した上で、「孫悟空がおまえたちを皆殺しにしようと鉄棒をみがいてたのを見たぞ。唐僧の肉なんておれら下っ端には口に入るわけないだろう」と唆し、雑魚妖怪の大勢を逃亡させる。


斎藤版の悟空は意識的に妖怪の殺生を避けている。三蔵に叱られるからというよりも、雑魚妖怪の立場にあわれみを持ちはじめている印象である。どうせ一人では大したことできないのだし、見逃してやるから逃げておけよという感じ。
原作では、せっかく情報を得させてくれた妖怪を無慈悲に打ち殺してしまう。そのあとで雑魚妖怪を逃げ出させる噂話を言いふらすが、それも無益な殺生を避けるというよりかは、大量の妖怪をいちいち殺すよりは逃げ出させてしまった方が手間がはぶける、という面が強そう。

また、斎藤版悟空の中では玄奘三蔵は既に「ただの坊主」ではなく「特別な坊主」に格上げされており、その価値を認めている。その上で、三蔵に友達がいない描写は何のためなのか、を考えると、やはり悟空と三蔵は「友情」ということばでは繋がれない絆があると強調したいのかもしれない。と考えたがいかがだろうか。
悟空にとって「特別な三蔵」は友情ではなくて、もっと特別な絆なのだ。というと、もう愛情しか残ってませんけどね、先生。

それとわざわざ友達がいない描写をしてきたのは、三蔵にとって心を許せる人はいないのであって孤独な存在であることを強調したいのかもしれない。うれしいことがあったときに一緒に喜んだり、かなしいことがあったときに背中をさすってくれたり、そういう存在が三蔵にとっては弟子しかいないんじゃないでしょうか。うっ。


妖怪だけじゃなく人間にも敬意を払う悟空


斎藤版
悟空は洞の中を進んでいくときに「落ちている人骨を踏まないようにして」歩いていく。


細かい点だけどこれもオリジナル。妖怪だけではなく人の尊厳にも配慮できるようになってきた描写と考える。
ほうら、お師匠様?なたは人間にしか敬意を払わないみたいですけど、弟子は自分の出自である妖怪にも、そしてあなたの出自である人間にも敬意を払ってみるみたいですけど、どうですか。少しお考えを変えたりしないですかね?


後半はオリジナリティあふれる展開 


斎藤版
洞内に攻め入った悟空は黒熊将軍を挑発して見せしめとして一発で仕留める。「殺すのはもう飽き飽き」で十秒待ってやるから逃げろと妖怪たちに逃亡を勧める。

雑魚妖怪全員と鵬は去った。残った青獅子と象の大王に対して、「おれは師匠を天竺まで送っていかなければならない。こんなところで、おまえたちとけんかをしているひまはない」と言って出口に戻ろうとする。青獅子は「もう手遅れだな。おまえのふたりの弟分では、雲程万里鵬に歯が立つまい」と笑われる。悟空はあわてて洞を駆け出る。

 慌てて悟空が戻れば、倒れていた八戒と悟浄から三蔵が陰陽二気瓶に吸い込まれてしまったと聞く。悟空はすでに三蔵の命はないと考える。鵬 を追って獅駝国に行くが、見つからない。そこで悟空は天竺まで飛んでいき、釈迦牟尼如来に「いいかげんにしろ」とたんかをきる。しかし逆に「鵬がこの隙におとうと弟子二人を始末しているのでは」と示唆され、再び八戒らの元に戻る。

 とそこには誰もおらず、三蔵にうりふたつの僧がいる。悟空は不老長寿だから三蔵の生まれかわりに会うことがあるかもしれないが、生まれかわった三蔵は三蔵の姿をしていないし、三蔵も悟空のことを覚えていないから再会しても意味がない。「つねひごろ、悟空はそう思っている」

「もし、僧が笑わなかったら、悟空は如意金箍棒であいてを突くことなどできなかったかもしれない。それはあまりにも三蔵に似ていたからだ。しかし、その笑いは三蔵の笑いではなかった。三蔵は笑うとき、たいていあごを少し引くのだ。だが、僧は逆にあごをいくらかあげた。」

斎藤洋「西遊記15名の巻」理論社90ページ

 悟空が棒を打ち下ろそうとした瞬間、動けなくなり釈迦牟尼如来が現れる。雲程万里鵬と如来は昔なじみであり、斉天大聖に興味がありいつか会わせると約束したのだと今回の件の理由を説明する。釈迦牟尼如来は改めて気をひきしめて三蔵の供をするよう悟空に言い聞かせる。

 
完訳版
洞に侵入した悟空は陰陽二気瓶の中に閉じこめられる。観音菩薩にもらった三本のいのちの毛を思い出し、それを錐などに変えて脱出する。悟空は一旦三蔵の元に戻り、八戒を連れて再び戦いに行く。

 洞にいくと、(一の)大王が出てきて大きな口で悟空を飲み込む。八戒は逃げ、三蔵に次第を説明する。悲嘆にくれる三蔵を尻目に八戒は悟浄に対し、「荷物を分けておれたちは解散だ。白馬は売って、お師匠さんの棺桶代にするんだ」と提案する。

 悟空が大王の腹の中で大暴れし、大王は降参すると誓わせる。大王の腹の中から悟空が出て来て、三蔵は安心する。悟空と八戒で(一の)大王と二大王を倒したが、三大王に三蔵は攫われてしまう。三蔵が食われたと聞いた悟空は胸をえぐられるように泣いてから、天竺の釈迦如来に会いに行く。三大王は大鵬であり、以前如来を飲み込んだことのある強敵だということがわかる。如来が大鵬を帰依させたあと、大鵬から三蔵は生きていることを告げられ、悟空は三蔵を助け出す。


まあ全訳版は、悟空が死んだと聞いて悲嘆にくれる三蔵を見て「お師匠様の棺桶」が必要だ、つまり三蔵が悟空と心中するつもりだと判断する八戒のドライな台詞とかかわいいシーンはあるけれども、ここは斎藤版のエピソードを詳しく読み解いていく。

先生のほぼオリジナルのエピソードに改変されたともいって良い回なので、言いたいことはこの辺に隠されていると考える。詳しく見て行こう。

まず陰陽二気瓶に閉じ込められるのは悟空か三蔵か、という点が異なる。

瓶や宝物の中に悟空が閉じ込められることには悟空の再生を意味している、という御大のお考えもあるが、斎藤版では三蔵が閉じ込められ同時に命を落とした(と悟空が考える)理由に変化している。ただし、三蔵は悟空と違って凡人であるので再生は促されずただ落命するツールになっている。

原作版では陰陽二気瓶に悟空がとじこめられて、三蔵は悟空が死んだと勘違いしたあとに、三蔵が三大王に捉えられて食われたという噂によって、悟空は三蔵が死んだと勘違いをするという二通りの勘違いの流れになっている。短い間に師は弟子が死んだと悲嘆にくれ、その後に弟子は師が死んだと悲嘆にくれるというジェットコースターのような起伏に富んでいるが、本文はシンプルなのでそこまでドラマチックかと言われると、そうでもなかったりする。

斎藤版は、(死んだ理由などの細かい点は違うけれども)悟空が三蔵は死んだという勘違いエピソードのみにしぼって取り扱ったことで、弟子からの師に対する思いが一層強調されて描写されている。斉藤版の悟空は悲嘆に暮れるというよりは、今できることはなにかを冷静に考えて対処しているように一見見えるが、釈迦如来から指摘されるまでその場しのぎの対策になっていることには自分でも気づいていなかった。三蔵が既に亡き者になった時点で悟空は冷静さを失うまいとしてもやはり気が動転していると考えるべきである。

先生は一体何がしたかったかというと、おそらく雲程万里鵬の化けた三蔵の偽物と悟空を出会わせたかったというのが一番のメインではなかろうか。三蔵に来世はあっても悟空にとっては今の三蔵にしか価値はなく、今世の三蔵を天竺に連れていかねば意味がない、ということを強調したかったに違いない。さらに三蔵の外見に愛着を覚えてはいるけれども(そうでなかったら三蔵のそっくりさんにためらわずに攻撃できるに違いない)でも、大事なのはその中身だというか、自分のことを理解してくれていて、これまで長い距離を旅してきたこの三蔵でないと自分にとっては意味がないのだと悟空は考えている。いくら生まれ変わりで性質は同じだったとしても、この三蔵と同じ関係は築けないと考えている。

しかも「つねひごろ、それを考えている」と本文に書かれていることからすると、かなり悟空の方でも旅の終わりを意識していることが示されている。旅を終えたくないという気持ちと、しかし不老不死の悟空と違って寿命のある三蔵にとっては旅を永遠に続けられるわけではなく元気なうちに天竺に到達させて大願を成就させてやらなくてはという相反する気持ちに揺れている。うう、エモい。


後半の女妖怪と国王が心を通わすエピソードもエモいんですが、つかれたのでこの辺で。また気が向いたら書きます。




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