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孫悟空は三蔵法師にいつから惚れているのか 前編

 孫悟空は三蔵法師を愛している。その証拠は後で述べる。いつの時点で彼はこの師父に陥落してしまったのかを原典を紐解き、じっくりと検証したい。天帝さえもおそれることのない神通力広大な斉天大聖孫悟空が、釈迦の弟子の生まれ変わりとはいえ今はただの人間である三蔵法師(しかもけっこうお荷物で厄介な朴念仁)になぜ心酔しているのか。その理由とは。

 これを読んでいる皆さまは西遊記に多少は興味を持っている方と思っているので、前置きは必要ないかと思いつつ、乱読した西遊記研究本からすると、西遊記の研究者はまず定番の二大前提から話を始める必要があるようなので、研究者でもないただの西遊記オタクである私も倣ってそうしておく。


 まず第一の前提、「三蔵法師は男性である」ということ。知ってた?

 史実として中国からインドに単身で旅立ち、経典を持ち帰った玄奘三蔵という僧がいる。もちろん男性。実在の玄奘三蔵は、道中で出会った各地の王や有力者にずっと我が国にいてほしいと望まれたり、道中の庇護を受けるほど熱く尊敬された事実があることから、固い意志を持った高潔な僧侶であったと考える。外見も見目麗しかったのかもしれない。知らんけど。

 そして玄奘の旅路をフィクションとしてお話にまとめた「西遊記」でも三蔵はれっきとした男性である。孫悟空、猪八戒、沙悟浄という三人の妖怪を弟子にした三蔵は実在の玄奘とは違い、弟子がいなくては何もできない赤ちゃんみたいな存在として描かれる場面が多い。

 ちなみに西遊記の三蔵は母の胎内に宿ってからずっと精進料理しか食べたことがなく、元陽を漏らしたことのない(精液を出したことのない)清浄極まりない身体を持っている。徳が高い三蔵の身体または精液を体内に入れれば不老不死になれるので妖怪たちはこぞって三蔵をさらって食おうとするかまたは性交を試みる。妖怪たちにその身を狙われる三蔵が天竺に旅立ったのは27歳、天竺に着いたのは41歳。その間ずっと童貞であるし、童貞どころか夢精もしてない。(30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい、どころの騒ぎじゃない。実際、天竺に着いた後の三蔵は仏になっている。)結構この時点でオタクはぐいぐい滾るものを感じませんか。

 日本ではテレビドラマでは三蔵法師を女優が演じる伝統がある。(三蔵法師を演じたのは1978年版では夏目雅子、1993年スペシャルドラマ版では宮沢りえ、1994年版では牧瀬里穂、2006年版では深津絵里。)ドラマの影響で三蔵は女性であると勘違いしている日本人が多いらしい。「らしい」と書いたのは本当に勘違いしている人がどのくらいの割合いるのか、私にはわからないため。


 第二の前提、「沙悟浄は河童ではない」ということ。知ってた?

 沙悟浄は元々天界の捲簾大将という役人だったが、ある罪で天界を追われ、流沙河という河で人を喰らう妖仙となった。中国の絵本や映画などでも悟浄のビジュアルはかなり多岐にわたっている。(ためしに「沙悟浄 中国」で画像検索してみてほしい。)おじさんぽい見た目からやや川の妖怪っぽいやつまでいろいろいる。河童のイメージは日本だけ。

 じゃあ、なんで日本では河童なのか。Wikipedia先生によると、江戸時代、読本などで西遊記が庶民の間に広がる際に曲亭馬琴が沙悟浄を河童と翻案したことからそのイメージが定着したらしい。定着し過ぎだよ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%81%8A%E8%A8%98%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E5%8F%B2


 さて、やっと本題に入る。いや待って、まだ西遊記の原典とは、って話をしてなかった。

 「西遊記の原典」という言葉が指す対象は、非常に分かりにくくなっている。その理由をざっくり言うと非常に長い時間をかけてたくさんの人たちに編纂されてきたのでいろんな版があるから。

 今読める「完訳」の西遊記というのは岩波文庫の中野美代子訳と平凡社の太田辰夫・鳥居久靖訳の二つのみ。西遊記と名の付く本はたくさんあるけれど、あとのものは全て著者の創作が混じっている翻案や部分訳という位置づけである。

 岩波文庫版は中国の明の時代に刊行された本を底本に、平凡社版は煩雑な部分の省略した清の時代に刊行された本を底本にしている。中野先生は「神は細部に宿る」として、ダイジェストの清刊本では西遊記の神髄には触れられないと仰ってらっしゃる。

 が、普通に読者として読むだけなら平凡社版でもなんら問題ないと思います。てか、ダイジェストされているはずの清刊本ですら、かなり長いから。

 安心したまえ、ここでは一応、その原典として岩波文庫版と平凡社版の両方をたどっていきたいと思っている。

 さてさて、やっと本題。

 孫悟空は三蔵法師を師父と仰ぎ、めちゃくちゃ大事にしている。孫悟空って暴れん坊で自分勝手なイメージを持っている人がいたらきっとびっくりする。彼は好きな人にめちゃくちゃ尽くすタイプ。(ただし好きな人にだけ)

 最初は確かに孫悟空の頭に嵌っている緊箍児のせいでしかたなく師父に従っているのだけど、野宿の際には筋斗雲で一飛びして遠くの家から斎(食事)を恵んでもらってきたり、妖怪に捕まれば一目散に助けに行ったり、それはそれは尽くしている。三蔵も一番信頼しているのが一番弟子である孫悟空なのだが、二人が衝突することもたびたびあって、悟空は三人の弟子の中で唯一三蔵から破門された過去をもつ。しかも二回も。

 突然ですが私が好きな悟空→三蔵エピソードを三つほどあげておく。本編での登場順に述べよう。

 ① 本当は悟空は妖怪を撃ち殺しただけなのに、「本当は人間を殺したのをごまかしているんです。」という八戒の讒言を真に受けて三蔵が悟空を破門するシーン。破門状まで書かれたのに別れづらく、「最後の一拝をお受けください。」と悟空が言う。「悪人の礼は受けぬ。」という三蔵は拒否するが、悟空は身外身の法を使って三人の分身を作って四方から拝するエピソード。

 自分に非はないのに、師父が別れるといえば別れるしかない悟空の切ない身上にぐっとくる。三蔵を責めることはせずにぐずぐず別れを引き延ばしているところも切ない。

 ② 悟空の破門中に三蔵は黄袍怪という妖怪に攫われる。八戒と悟浄では助け出せないので、八戒が悟空を呼びに行く。助けに戻る途中で「海におりてからだを清めてくる」という悟空。八戒が「急いでいるのに。」と急かすのだが、「おれはからだに妖気が立ちこめている。師父はきれい好きだから、きらわれるとこまるので……。」という悟空。

 うっ。これ、もう「嫌われると困る」って言ってる時点でもう確定じゃないですか。嫌われたくないんですよ。しかも勝手な理由で自分を破門してきた師父にですよ。どんだけ好きなんだ、もう。滾ってきませんか?

 ③ 宝林寺という寺で、三蔵が一晩の宿を依頼したが「軒下へでもうずくまっておれ。」と口汚く断られ、しくしく泣いて弟子の元に戻ってくる。悟空は師父に「大丈夫です。おれが行ってきます。」と笑って、再び寺の門に向かう。石のこま犬を如意金箍棒で一打ちし、こっぱみじんにしてから、驚いている寺の僧たちに「ここにいる僧たち全員を正装させて門の外に並ばせろ。わが唐朝の師父をお迎えしてさしあげろ。」と怒鳴りつける。悟空が僧たちを率いて戻ってくると、八戒が「師父が入っていかれた時には涙を流して出てこられたが、兄きがいけばいっぺんに坊主どもが頭を下げて迎えに出てきた。」と遠慮なく笑うというエピソード。

 三蔵のことを馬鹿にされたり、どうでもよい扱いをされたりすることに悟空は非常に敏感である。自分が大切に思っている人を守りたい(ただし方法は非常に荒っぽい)気持ちが表れているエピソード。

 


 さて、長くなったので次回が本番。

 二人の出会いからさかのぼって悟空の心情を推し量ってみよう。

 


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