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「銀河鉄道の夜」とヤングケアラー

時たま思い立っては読み返したくなる小説や童話がある。宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」もそうした作品の一つである。
私が手にしているのは、40年ほど前に筑摩書房から出た「新修 宮沢賢治全集」なのだが、賢治が幾度も手を加えた原稿の初期形である異稿も併載されていて面白い。これを最終形と比べて読むと、賢治が何を削除あるいは省略し、どのシーンを加えていったのかといったことや、どのような問題意識をもってこの作品を構想したのかといったことをあれこれ想像できて興味深いのだ。

すでにネット上ではこれに言及している意見が多く散見されるようだが、この作品は、昨今社会問題となっているヤングケアラーの物語でもあるということを改めて感じる。

ジョバンニの姉は彼と母親との会話に出てくるだけで、実際に姿を現すことはないのだが、病弱でどうやら寝たきりになっているらしい母親の面倒や家事を担っていて、おそらくは外に働きに出ているということが想像できる。
ジョバンニもまた、学校の帰りに活版処で活字を拾う仕事をし、わずかな日銭を稼いでは母親のために牛乳に入れる角砂糖やパンを買ったりする。
異稿では、母親が働きづめに働いて身体の具合が悪くなる様子やジョバンニが朝早く2時間も新聞配達の仕事をする様子が彼の独白の形で描かれている。ジョバンニは子どもらしい遊びの時間や睡眠を削って働き、そのために友だちもなく孤独で、授業中は頭がぼんやりとして眠くて仕方がないのだ。
さらに異稿では、カムパネルラの家庭と比較して、ジョバンニの家庭の暮らしの貧しさがより強調して描かれる。おそらく賢治は、現代において問題がより顕わになっている社会的、経済的な格差をはじめ、いじめといった問題を先取りするように作品を構想していたのではないかと推測されるのだ。

ヤングケアラーが抱える最大の問題は「社会的な孤立」であるといわれる。
ケアされる立場の親なり祖父母が介護や医療といった公的支援の対象であったとしても、それはどうしても一面的な支援にとどまりがちであり、その家庭が抱える貧困対策や自立支援を視野に入れたトータルなものとなっていない場合が多い。
それどころか、当事者が公的支援にたどり着くための情報にすらアプローチできていないケースも多いという。
まして、ヤングケアラーである子どもの学業の遅れや精神的負担、同世代の子どもとの遊びの時間を取れないことによる学校内コミュニティからの疎外、さらにそこから派生するいじめといった様々な問題を総合的に捉え、対処するための体制はいまだ不十分であると言わざるを得ない。
こうして支援の網の目からこぼれ落ちたヤングケアラーは、ますます社会的な孤立を深めていくという悪循環に陥ってしまう。

ヤングケアラーであるジョバンニの抱える最大の問題は、母の幸のため、直面する苦難を解決あるいは回避する手段を持ち合わせていないということである。
物語に描かれたこの時代には、公的支援や社会保障制度という概念すらなかったにせよ、自己犠牲を自らに強いるのではなく、これを何とか社会的に認知されるものとする手段はなかったのだろうか。
まず思い浮かぶのは、学校の先生への相談であり、カムパネルラの父親である博士に相談することなのだが、ジョバンニの気持ちはそれとは逆の方向へと内向していく。何よりもそうした相談を当の母自身が良しとしないということを、ジョバンニもまた暗黙の裡に了解していたのかも知れないのだ。
だからこそ、支援する立場にあるものは、あらゆる手を尽くして公的、私的を問わずネットワークを張り巡らせ、網の目を細かく、より細かく紡ぎながら、困難な状況にある子どもやひとり親家庭の抱える問題に寄り添い、すくい上げていく必要があるのである。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする」というのは、「七、北十字とプリオシン海岸」の章で語られる銀河鉄道に乗り込んだカムパネルラの言葉だが、これはジョバンニの心情にも共通するものとして深く根ざし、作品全体に通底するトーンを形成している。
この考えはさらに最後の章において、「ほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」というジョバンニの言葉へとより普遍的なものに飛躍し発展していく。
これはまさにこの物語全体のテーマに直結した言葉なのだが、これを今どう捉えればよいのか。肯定するのか批判的に受け止めるのか、深く考える必要があるだろう。

先ほどの言葉に続けてカムパネルラは、「いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう」と自らに問いかけるように言うのだが、これはいつまで経っても答えの出ない問いではないだろうか。
母親にとっての「いちばんの幸」とは、取りも直さず「わが子の幸」であるということは容易に想像できることなのだが、となると、母のいちばんの幸であるところの「わが子=自分自身」の希求する幸とはなんだろう、母のためにこの自分が犠牲になることでは決してないだろう、という問いと答えをループ状にいつまでも繰り返すことになってしまう。
その結果、「けれどもほんたうのさいはひは一体なんだらう」とジョバンニが言い、「僕わからない」とカムパネルラが言うように、この問いかけはより大きな問いへと止揚され、物語の根源的な問いとなって私たち読者の胸に響き続けるのである。
 
そうして物語の最後の場面において、カムパネルラの犠牲的な死が衝撃的に知らされるのだが、同時にカムパネルラの父親の博士からは、ジョバンニの父が近く帰還することが伝えられる。
ジョバンニは胸がいっぱいになりながら、「母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと」一目散に河原を街の方へ走ってゆくところでこの物語は終わっている。
このラストはジョバンニの境遇にかすかな希望をもたらすものと捉えればよいのだろうか。しかし、友人の死が同時並行的に描かれているために、読者はこれを素直には受容することが出来ないのだ。

ジョバンニの家庭の苦境の多くがおそらくは「父の不在」によってもたらされたと考えれば、「父の帰還」はジョバンニが抱える問題や鬱屈の多くを解決に導いてくれる要素にはなり得るだろう。だが、父の存在=父権の復活がそのまま子どもや家庭の幸せに直結していると読み取られかねない側面を見てしまうと、この物語のラストにはより複雑な感情を呼び起こされてしまう。

私自身はこれまでごくありきたりな一般読者として賢治の詩や童話を読んできたに過ぎないのだが、光の当て方や読み方次第でもっと多様な面を読み取ることが出来るように思われる。今回の読みは、私の力不足もあり、あくまで一面的な感想に過ぎないのだが、「銀河鉄道の夜」は、さらに深く読み込み、読解する必要のある作品なのだと今さらながらに感じる。


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