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Why ?

数ヶ月前に初来日した方との交流ができて、日本がとても素敵な国であることを感じて嬉しくなったり、日本人独特の考え方が理解できないという訴えにも直面して心が痛む。
ただの感想や意見にすぎないのだろうけれど、どうにかしたいと思う癖に気付く。

Why?

疑問を投げかけられても、返答できない。

例えば、言葉。
味噌汁 misoshiru
そして豚汁 tonziru
同じ「汁」なのに、味噌汁は「しる」で豚汁は「じる」だ。
けんちん汁は「じる」、お汁粉は「しる」。
何気なく使っている言葉だけれど、なぜ?と突っ込まれると返答できない。

もうひとつ例を挙げると、「まったく」という言葉。
まったくもう!という怒りを含んだニュアンス。
すべてという意味の「全く」とどう違う?と聞かれたが、即答できない。

このように、たいていの言葉を知らずに、理解せずに使っている。
日本語の文法自体が難しいのだけれど、そもそも考えて話していない。
母国語だから意識せずに会話してこれたのだろうけど、なんとなくのニュアンスでやり取りしてきた。
それに、なぁなぁにしたり、ごまかしたりしても、その場をしのげればいいという考えさえ持っている。

今回、言葉と文化の違いがあると、理解できないのは明確で、自分とは違うんだなとあっさり思えた。
外国人という立場だから諦めが早くつくのかもしれない。
日本人同士だってみんな違うのに、どこか分かり合えるはずだという期待を持ってしまって、自分の思い通りに行かない時にこじれてしまうことがある。

通じるはずだ、という思い込み。
共感したい、という欲。

そのうち、あなたとわたしは同じだ、と気付いているからこそ、その違いに喜びを感じられる時がくる。
それはとても自然であり、すごい瞬間だ。

話は戻って、文化の違いだけではなく個人的感想があるとは思うけれど、日本に住んでみて感じたことを次のように話してくれた。

日本人は「仕方がない」と説明する。
論理的な考えや根拠のない説明をする上に、なぜ?と聞いても目を逸らす。
それは真摯な態度ではないし、説明ができないのに要求は変わらない。
自分の意見に対してどう思う?と聞いても答えない。
あなたの考えなどいらないと言われているように感じる。
そうするものだ、みんなしている、仕方がない、それが日本人の感性なのかもしれないが、とてもずるく感じる。
諦めるしかない、進展がない、時間をかけても無駄に感じる。

聞きながら、日本人だって苦しいのにそうしてしまう習性から抜け出せないもどかしさを感じた。
自分の考えがないし、一見相手を思いやっているようだけど、どう見られるかを気にしているだけだったり、都合の良い解釈でしかなかったりする。
周りに流され、仕方がないと、面倒なことには首を突っ込まないのが賢明だと言われる。
堂々と主張すれば煙たがられ、自分の考えを持つことを尊重されないわけだから、自分を出せと言われる場面には滅法弱くなる。
呑み込まれていくことに違和感をおぼえながらも、丸くおさめるようにと諭す教育。

日本人と書いているが、自分でしかない。
わたしはそんなつまらない自分を、どこから面白がって見ているのだろう。

つまらないと感じるのは、自分の考えがあることを知っているからだと思う。
あるのに言葉にしてこなかったし、言葉には限界があることも、伝わらないことも分かっていたから諦めたのだろう。

自分に対して不誠実な態度にも思えたが、それはある意味では自分を守ることでもあるから、やはり良い悪いではない。

私は気持ちや考えを発することが、本心なのか、本当に自分の気持ちなのかが分からない。
誰かの価値観、地域性、風習、教育、他人の目、絡み合った思考のどこに自分があるのか、いまだに分からない。
ただ、自分と思っている存在があって、その人をそんな視点でそんな思考で見ているのだ。

だからなのか、自分から働きかけることはなく、受け身で流されることに慣れ、苦しくなった時に反発するのが定番だ。
忙しいから、余裕がないから、生活に逃げて時間を言い訳にする。
それが賢明な生き方だった。
だけどそこにも盲点があった。
それがつまらないと感じていたけれど、それを突き詰めている人は面白いのだ。

今のところ、英語を話したいわけではないけれど、異文化交流というか人と交流することが楽しい。
そのなかで、自分とは違う向き合い方や伝え方をする方達から学びながら、逃げてこなかった方達と出逢いながら、螺旋階段を上るような感覚で、目の前に出現する投影を楽しんでいる。

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