「特別な人間/女はいない」 ―『虎に翼』感想―
NHKの2024年度上半期の朝ドラ『虎に翼』が完結を迎えた。
私自身、朝ドラを複数見ているわけではないので、これを言うのは、少し憚られるが、
「最高の朝ドラだった」
これが観劇後の私の素直な感想だった。合計130話、15分の物語を、私は毎日楽しみに待っていた。それどころか土曜日に放送される、今週分の一挙放送までも、毎回見ていた。つまり実質既に虎に翼を二周している。
なぜ私はこれほど、「虎に翼」に惹きつけられるのだろう?
その疑問に答えが出ないまま、最終回を終えた。そして今、少し自分が「なぜ虎に翼を面白いと思ったのか?」を考える余裕が出てきた。
そして、先に答えを言ってしまおう。
「特殊な人間は存在しない」
これが、この物語から、私が受け取ったメッセージだ。この通底するテーマに、私は惹かれたのだ。
今回は、私がこの感想に至った理由と、なぜそれが「この作品の魅力」足りえるのか、それを、物語のあらすじと共に説明していこうと思う。
法を学び、挫折した人々(1-9週)
この物語は、最初の9週までは、猪爪寅子が、法学生になり、司法修習に合格、弁護士になるまでの話だ。
はっきりと言ってしまうと、この章の前半は、キャラクターの紹介なども兼ねており、また結構学生の恋愛などの描写もあるので、良い言い方をすれば「軽快」、悪い言い方をすれば「淡泊」な部分でもある。とはいえ、映画にせよドラマにせよ前半の導入部分というのは、えてしてこういうものだ。
しかし、主人公の寅子筆頭に、登場人物が実に個性的で、愉快なこともあり、飽きはしない。とはいえ、女性が学び舎へ通うことの抵抗、そして重圧などはきっちりと描かれており、この時代の空気感を掴むこともできる。
物語が動き出すのは、寅子が久保田といった先輩と共に、司法修習に受かり、初の女性弁護士となった後のことだ。
数多くの同級生が、道半ばに法学をあきらめる中、最初の弁護士として活躍しようとする寅子だが、最初の女性弁護士を頼ろうとする人は、やはり少ない。同性の依頼人でさえも、信用しようとしない始末。
そんな中、今の日本では、社会的信用こそ全て、そしてその信用は結婚によって得られるのだと、寅子は思い至る。寅子の口癖である「はて?」は、彼女の社会の洞察力と、その中にある矛盾、不条理を指摘する能力の現れであるが、それを、今回はむしろ悪用した形となる。
さて、現実に、結婚を契機に、依頼を勝ち取ることができるようになる寅子だったが、日本は軍国主義へとどんどん歩みを進めていく。更に先輩の女性弁護士である久保田は、この中で「男たちが戦争を行く中、男に代わって国で仕事をする女性」のモデルとして、ある種の国威発揚の一環で祭り上げられていた。
どうにもその様子に気乗りしない寅子だったが、彼女に転機が訪れる。
妊娠だ。
新たな命の誕生、それは喜ばしいことである。しかし「戦時中の日本」で「子供を産み育てる母」こそ、この頃の女性に最も期待されていたロールである。そしてそれは「何よりも優先して」行うべきものだった。
寅子は、結局、法律の世界から身をひくことになる。
第1章は、ある意味、戦争などがもたらす時代の空気感に、翻弄されていく女性たち、それを描いていると言える。
愛の裁判所と愛なき家族(10-15週)
NHKの公式では、「裁判官編」と銘打たれた、第二章。
文字通り、戦後、日本国憲法の発布から、再び法の道を歩み始めた寅子が、裁判官として活躍する章である。
彼女が最もかかわりを持つのが、家庭裁判所だ。NHKに方々でやたらと使い倒されている滝藤さん演じる多岐川や、サラリーマンNEOのセクスィー部長、もとい沢村さん演じる、ライアンなどを筆頭に、新たな個性的な登場人物が大勢出演する。多岐川は、家庭裁判所を愛の裁判所と言って憚らないが、寅子が直面する問題は、愛なき家族ばかりだった
家裁での仕事で、まず最初に取り掛かるのが戦災孤児の問題だ。その中で代表格として登場するのが、孤児の兄貴分的存在、道男である。当然彼は、家族を失い、そして家族や大人を信用できなくなっている。
更に元学友の梅子とも再会。彼女は、夫を亡くし、相続問題に直面しており、息子たちは自己の利益を優先して、相続の権利について騒ぎ、更に姑も、梅子の相続に強く反対。ある種、梅子は邪魔モノのようになっていた。
そして、栄二という、窃盗を繰り返している子どもとも出会う。彼は、絶賛離婚調停中の両親からは腫物扱い。どちらも親権を相手に押し付けあう始末であった。
血の繋がりの有無が、呪いや"くびき"のようになっている人々に、寅子は親身に寄り添い、家族は血縁そのものではなく、むしろそれを超えた場所にあるものだと、答える。
しかし仕事に追われるなか、寅子自身の家庭にも暗雲が立ち込める。実の娘である優未との関係がぎくしゃくしてしまい、更に不幸なことに、新潟出張の話まで舞い込んでくる。
家族からは娘と共に出張することに反対されるものの、何とか寅子は説得し、新潟の家庭裁判所へ赴く。
偏見を利用するもの、されるもの(16-19週)
「新潟編」と題された第三章。
コンフォートゾーンを旅立った寅子だったが、田舎ならではの強い連帯と因習に戸惑うばかりだった。
社会の不条理や、矛盾を見抜く、寅子の「はて?」が、全て「昔からそういうもの、そういう決まり」という固定観念で反論される、異界である。
そんな中で、家庭裁判所に勤める、高瀬と小野は、そんな因習に苦しめられる人々の代表でもあった。
高瀬は、兄弟を戦争で失った結果、内気な彼には、周囲から「いずれ家長となるものらしくせよ」という、「男らしさ」の強要に苦しめられる。
小野は、かつて朝鮮人の恋人を持ったことで、周囲からは「まともな男と付き合え」と後ろ指をさされていた。
寅子が新潟で務めている中、ある時放火事件が起きる。容疑者は朝鮮人の男性、金顕洙。
後の夫となる、星航一とともに、寅子は、本件がある種の朝鮮人差別、つまりかつて起きた関東大震災の朝鮮人虐殺に通ずるものがあると指摘。
納得のいかない部分を徹底的に調査した結果、やはり金顕洙が犯人であるとする証拠は、有効なものではなかった。それどころか、ある種のでっち上げのようなものでさえあった(最近だと、それこそ袴田事件を思い出させるような内容だった)
無事、放火事件を解決したのち、寅子は次に、少年少女の連続犯罪に対処を迫られる。
そんな中、容疑者として挙がったのが、将来を有望視された才女、美佐江であった。清廉潔白、博学才穎は、彼女の表の顔。裏では、同級生の少女たちに売春をさせ、男たちを手玉に取る、サドの作品に出てくるような悪女だった。
これまでこの作品には、女性であるがゆえに苦しみ、社会からの偏見によって、不利を被る女性ばかりが登場した。
だが美佐江は、ある意味で初めて女性であることを武器にする人物だった。
そう、美佐江自身も、視聴者も最初は信じていた。
後に明らかになるが、美佐江は東京で、男を手玉に取るどころか、結局最後には社会にすりつぶされてしまう。孤立無援、真の友も、救ってくれる恩師もいない。彼女は最終的に、自ら死を選んだ。
この章で描かれているのは、社会がその人に「期待すること」、つまり偏見そのものである。
人々は偏見に翻弄され、そして都合よく利用する。
容疑者が見つからないなら、「朝鮮人なら、凶悪犯罪を犯してもおかしくない」と言って、無実の朝鮮人を罪人に仕立て上げる。
「若い女」に対する男(社会)の「特別視」を、特権的地位と勘違いし、世界を好きなように動かせると信じる少女たち。
偏見が、人を殺すのだ。
過去の清算(20-26[最終]週)
「ふたたびの東京編」と題される、最終章。
ここから、虎に翼の物語は、完結に向かい加速化していく。
そのためか、ここからは複数の物語が多層的に展開され、入り組んだ構造となっていく。
それぞれにテーマがあり、見どころがあるが、あえてこの章の共通したテーマを言い表すのであれば、「過去のツケを払う」であろう。
寅子がモデルの三淵嘉子さんが実際に担当した「原爆裁判」、そして家族を殺す是非を問う「尊属殺」、そして美佐江の娘である「美雪」が、最終章の主な出来事である。
話題の規模も、関わる人物も異なる、この三つを、同じテーマで語るのは、少し乱暴に感じるかもしれない。しかし、やはり最終回を経て、私は未だ、この考えを改めていない。
一つ一つ説明していこう。
「原爆裁判」はまだわかりやすいだろう。かつて広島と長崎に落とされた原爆について、その是非を国際法の観点から問う裁判だ。この物語も1954年頃の話になっているが、実際原爆についての議論は、第五福竜丸被爆の1954年以降、日本で過熱していく。ゴジラの公開も同時期であると言えば、当時の空気感がわかりやすいだろう。
「尊属殺」は、両親の殺人を特別刑を重くする、という憲法規定なのだが、これも、実は日本国憲法草案時期に、最後まで入れるな入れろを、寅子ら改革派と、保守派で相争った項目である。
また美佐江の娘である「美雪」だが、実は彼女は、母と同じ道を歩み、少年少女の犯罪の親玉となっていた。
この通り、規模や文脈こそ違うものの、いずれも過去に起きた出来事について、その「ツケ」が回ってきた事例だと言えるのだ。
そして最終章には、少し変わり種の問題も、その間に挟まっている。
元学友で、現在弁護士の轟が、寅子に自分が同性愛者と語り、同性のパートナーがいることを明かすシーンがある。また彼は、性転換を受けた友人もおり、性の多様性についての展開が挿入される。
また寅子と再婚相手の航一の間では、姓をどうするかという、今まさにホットな話題である「夫婦別姓」の話題が出てくる。
どうやら、このことが「詰め込みすぎ」という批判も受けていたようだが、私は全くそうは思わない。間違いなくベストなタイミングで、ベストな話題が挿入されていたように思う。
こうした「同性婚」や「夫婦別姓」の話題は、確かに近年になって議論が白熱している印象はある。しかし同性愛者は、何も「ここ数年」で生まれた存在でもなく、有史以来常に人類にいた。また夫婦別姓も、私の親世代(戦後生まれ世代)から、仕事をし、家庭を持つ女性にとって、常について回った問題だった。
つまり、結局これらの問題は「現代になって議論されている問題」というよりは、昔からあった問題を、棚上げにし続けた結果、今ようやく「議論の俎上」に上がっただけ、といった方が適切であろう。
そしてそれは先述した最終章の共通テーマ「過去の清算」と隣接するものでもある。つまり、劇中の人物が過去の出来事で苦しみ、その過去の問題について議論を交わすのと同様、五十年前の寅子たちの時代から、今まで一向に解決しようともされなかった問題を、私たち現代人が、清算しているに過ぎない、ということを暗示しているのだ
私は歴史モノは、「過去に起きたことを話す」だけなら、単なる学術書と変わらないと思っている。
私が歴史モノを好きな理由は、むしろ「今起きていることの一端が過去にある」という連続性への実感や、「現代とまったく同じ問題を過去の人々も抱えていた」のだという、歴史の反復への気づきである。(これは現在の大河ドラマ「光る君へ」とも共通する。)
そしてそれが確信に変わったのが最終回。最終回は寅子の死後、突如1999年に飛ぶ。これは、ちょうど男女共同参画社会基本法が成立した時代である。
寅子たちの活躍した時代から更に20年後、そして今から約20年前。
男女の社会参画の均等を心がける法律が制定されてから、今に至っても、未だ、女性の正規雇用は、2024年7月段階で、男性の約5割程度であり、就業率も、男性の7割に対して、女性は54%である。
この物語が言うように(少なくとも私はそう受け取った)、大抵の「今の問題」は、結局「昔は透明だった」から見えずらかっただけで、もちろんそれに気づき、声を上げた人もいたが、周囲の人々は、結局それを無視し続けたために、生まれた「ツケ」でしかないということ
似たような話題で言うと、現在絶賛問題となっている海洋のマイクロプラスチック問題は、実は1970年代、つまり今から半世紀前に、既に問題視されていた。しかし、その後も海洋のプラスチック流出は、止まるどころか、倍速されていった(Jambeck, et. al., 2015, “Plastic Waste Inputs from Land into the Ocean”, Science, vol. 347, no. 6223, pp. 768-770.)。
「ふたたびの東京編」は、この「過去の清算」というテーマにより非常に統一感があり、それでいて物語の最終章に相応しい構成だったと言える。
特殊な人はいない
そして、その「過去のツケ」という最終章のテーマに加え、この物語全体を支えるテーマが存在する。
それが、「特殊な人は存在しない」ということだ。
猪爪寅子、そしてそのモデルとなった、日本初の女性弁護士にして、原爆裁判を担当した三淵嘉子
星航一、そしてそのモデルとなった、総力戦研究所や、各地で裁判官、所長を務めた三淵乾太郎
彼らが実際に、時代を動かすような偉人であるのは間違いない。彼らは確かに地獄のような道を歩み、血を流してきた。
しかし何より重要なことは、寅子の背後にいる、数多くの道半ばで諦めた人たちだ。
このドラマでは、寅子が、そんな人々より秀でていたのか、という論調で語られることはない。それどころか、結果的に法曹界へと歩めなかった元学友の涼子や、梅子、香淑も、各々違う地獄を歩んでいた。
そこには、決して優劣は存在しない。
そしてこの物語には、繰り返し「特別でなければいけない」という強迫観念
に駆られる人々が登場する。
学友たちが、諦め、最後の1人となったことで、必ず弁護士にならなければいけないと、血反吐を吐く寅子筆頭に。
そんな優秀で伝説的な寅子と航一を親に持つせいで、どこからか沸き上がるプレッシャーに押しつぶされそうになる、彼らの子どもたち。
そして、自分を特別な存在と信じて疑わなかった、美佐江とその娘の美雪。
だが、どんな道を選んでも、どんな選択をしても、全ての人が特別であることに変わりはない。
「自分を責める前に、周りを責めなさい」
最終話で、進路と未来に漠然と不安を感じる、自分の子どもたちに、こう声をかけた寅子。「置かれた場所で咲きなさい」の真逆を行く説法だ。
だが、土が悪いなら花は咲かないし、雨が降らないなら枯れて当然だ。
それに対して娘の優未が、かつて母の寅子から聞いた言葉をそのまま引用し、こう答える。
「だから私は、たくさんよりどころを作っている」
何かに縋るのではない、使命を持つのでもない。何か一つしか寄る辺のない人間は、それが折れたとき、立ち直るのが難しくなる。まさに法の道を一度諦めたときの寅子が思い起こされる状況だ。
娘の優未は、それを心がけている。だから母の心配に対して、「私は大丈夫だ」と安心させた。
目の前に無限の選択肢があり、それを自由に好きな時に選べることこそが大事なのであり、そこから何を選ぶかはさして重要ではない。
だが、社会はそれを許さない。どんな道を選ぼうとも、生き地獄を味わうことになり、そしてあたかも選択が無いかのように人を苦しめる。
だからこそ、そんな社会の方を正すべきである。「周りを責めなさい」という言葉にはそういう意図も含まれていると言える。
そして何より、最後の寅子と桂場の問答で、この「特殊な人はいない」がいかに優れた、そしてこの物語を代表するテーマであるのかがわかる。
今からその内容を引用するが、ここではっきり言おう。まだ虎に翼の最終回を見ていないのなら、今すぐNHKプラスで、見てくるべきだ。
役者の魂のこもった熱、脚本の流麗な筆致。そして美しく見事なカメラワーク。
タダの引用文で、初めて知るにはあまりに勿体ない部分だ。ぜひ初見は、そちらを楽しんでほしい。
…
……
………
…………
というわけで、未見の人は皆、NHKプラスに行っただろうから、最後の会話の内容を紹介しよう。
桂場は、今でも自分は「ご婦人が法律を学ぶことも、職にすることも反対」だと言う。それは「法を知れば知るほど、ご婦人たちは、この社会が不平等で、いびつで、おかしいことに傷つき苦しむ」からだと言う。
なるほど確かにその通り。社会の不平等、不条理に気づくくらいなら、真実の遠いところにいた方がいいのかもしれない。
それに対して寅子は、「今変わらなくても、いつか何かを変えるかもしれない」と、女性の法律への参加の重要性を訴える。
また桂場が、かつて寅子が激昂した穂高先生の言葉である「石を穿つ雨垂れの一滴」を引用し、それでは結局、穂高の言ったことと同じではないかと反論。
一方寅子は、あくまで自分の意志で「雨垂れ」になるなら、それはむしろ望むところだと答える。つまり「誰かが未来の女性法律界」のために仕組んだ「尖兵」のように自分がなるのが嫌なだけで、それを自らの意志で、飛び込むことは、似ているようで全く違うものだと言う。
そしてこの会話はこう続く。
これで、虎に翼はエンディングを迎える。
もう敢えて私が口にする必要は無いが、改めて言おう。
この通り、寅子と桂場、そして学友の山田を含めた会話は、「佐田寅子」という人物が、特殊で偉大だった、で終わるのではなく、その場に大勢いた、女性たち、そのすべてが「社会を変えるために、戦う人間」であると、言って憚らない。
これは、見ようによっては随分大胆だ。なぜなら、佐田寅子には、最初の女性弁護士である三淵嘉子という確固たるモデルがいる。そんな彼女に、「自分のような女は特別でもなんでもない」と独白させるのは、ややもすれば危険な受け取り方をされてしまいかねない。
だが、それでもだ。
そんな危険を冒してでも、これは言わなければならないことだったのだ。
私はその勇気に胸を打たれたし、心揺り動かされた。
冒頭でも引用した、日本国憲法のこの一文。虎に翼の「特殊な人はいない」というメッセージには、これが強くかかわっている。
確かに、口で、皆平等で、一人一人が特別だ、というのは簡単だ。しかしその意味を、本当に、心から、魂から理解している人はどれだけいるだろうか?
虎に翼のOPでは、時代も職業もバラバラの女性たちが、寅子と共に登場する。今にして思えばこれも伏線だったのだろう。
どの時代、どの社会であっても、どの身分であっても、不条理のために立ち上がり、押しつぶされ、そして世界を変えてきた女性たちがいる。
勿論男性も、それ以外の人たちも同様だ。
私たちは皆、将来の偉人になれる。歴史の教科書には出てこない、名もなき英雄たちが、ごまんといたように。
そしてそんな私たちを強くする、武器、それこそが、法律だ
時代に合わせて変える必要はあるし、出来の悪い法律もあるかもしれない。
だが、それでもなお、1999年の優未が言うように「法は皆の味方である」ことに疑いの余地はないのだ。
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