「貴方のことは嫌いだが、貴方の権利は死んでも守る」と「正義の暴走」について

 昨今、多くの人間の関心を集めるために、過去の偉人の言葉や、芸能人の名言、果ては漫画の一コマさえ引用している人が見受けられる。Twitterは字数が制限されているため、だからこそわかりやすく、明快で、それでいて含蓄のある言葉が必要なんだろう。特に画像は、これといって言葉を添えずとも、強い情報量を含んでおり、そのためしばしばバズるツイートは、画像や漫画のキャラクターに自分の意見を代弁させることが多い。

 しかし私が気になるのは、漫画にせよ小説にせよ、重要なのは文脈ではないか、という点である。私が歴史学を修めている学部生時代、教授たちから口を酸っぱく言われたのは、言葉を引用するだけでなく、その言葉を発した人間の背景や個性、当時の社会、環境、文化にすら目を向けるべきだ、ということだ。だからこそTwitterのようなSNSにおける言論に関する雰囲気には、少しばかり疑問視したくなるようなものが多い。というわけで、今回は、そんな中でも気になる、そして流行ってるワードを2つピックアップして、それについて私自身の意見を述べていきたいと思う。140字ではとてもじゃないけど足りないので、こうしてnoteにすることにした。しかし思いついたことを推敲もせず書きなぐった結果、原稿用紙30枚分という長さになってしまったことを、あらかじめお詫びしておく。

・「貴方の言うことには賛成できないが、貴方がそれを言う権利は命を賭けて私が守る」

 はい、まずはこの言葉から。色々翻訳の仕方があるのですが、これはヴォルテールの言葉を引用したものと言われている。この言葉がよく使われる事例は、昨今においては概ね、「表現規制」に関するものである。特に一番話題なのは「差別」と「ポルノ」についてだ。
 所謂リベラル的な考え方、フェミニズム的考え方の中で「女性の表象批判」や「人種的平等、ポリコレ」に関して煩わしく思った層が、好んでこの言葉を用いるわけである。つまり人種差別や性差別には「賛成しない」が、それは「権利」として守るべきだというのだ。

 実際にこの言葉、欧米でも「表現の自由」について語るときにはしばしば引用されるらしい(勿論、それは「反反差別」的な立場に限らないが)。ちなみに英語では、

I Disapprove of What You Say, But I Will Defend to the Death Your Right to Say It.

 などと表記される。さてところで既に、リンク先のwikipediaでは

These were not his words, but rather those of Evelyn Beatrice Hall

 となっており、そもそもヴォルテールの言葉ではないと言われていた。なんだヴォルテールの言葉じゃねえのかよ!と憤った私だったが、再び脳内の歴史教授が私に囁く。

Wikipediaを参考文献に使うな

 というわけで、一次史料探しをすることにした。Wikipediaによれば、この言葉はそもそもEvelyn Beatrice Hallのヴォルテールについて書かれた著書に登場する。著書の名は"The friends of Voltaire"、どうやら1906年に書かれたものらしく、その199ページ目に該当の言葉を発見できた。

'I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it,' was his attitude now.
( Hall, Evelyn Beatrice, The friends of Voltaire, London, Smith Elder & Co., 1906, p. 199)

 いや、そもそも原文からしてヴォルテールの言葉とは言ってないじゃないか……。
 
だが待て。先ほども言った通りだ。文脈だ。重要なのは文脈なのだ。
 その1ページ前、そこにはこんなことが書かれている

'On the Mind' became not the success of a season, but one of the most famous books of the century. The men who had hated it, and had not paticularly loved Helvétius, flocked round him now. Voltaire forgave him all injuries, intentiona or unintentional. 'What a fuss about an omelette!' he had exclaimed when he heard of the burning. 
(Hall, Evelyn Beatrice, 1906, p. 198)

 ここでは啓蒙思想家、エルヴェシウスの「精神論」焚書について言及しており、それを「オムレツ如きに何たる騒ぎだ!」と批判しているヴォルテールの姿が描かれる。加えて、エルヴェシウス、及び、その「精神論」をヴォルテールがそれほど好いていなかったこと(なんなら憎んでさえいた)も書かれている。
 そしてこの文書が先の有名な引用句に繋がるわけだ。なるほど、つまりまとめると、ヴォルテールが嫌っていたエルヴェシウスが、焚書にあった際にとった、ヴォルテールの態度を、先の著名な言葉で言い表しているのだ。
 加えて別の書、同じくエヴリン著の"Voltaire in his letters : being a selection from his correspondence"には、このようなことが書かれている。

When, in 1759, On the Mind was burnt by the public hangman in company with Voltaire’s poem On Natural Law, though he had soundly hated (and roundly abused) Helvétius’ masterpiece, he fought for its right to live, tooth and nail, up hill and down dale, on the essentially Voltairean principle: “I wholly disapprove of what you say—and will defend to the death your right to say it.”
(Hall, Evelyn Beatrice, Voltaire in his letters : being a selection from his correspondence, G. P. Putnam's Sons, 1919, p. 65.)

 ここでも同じく、ヴォルテールとエルヴェシウスのあまりよろしくない関係を明らかにしつつ、そしてそれが焚書の目にあったとき、ヴォルテールが「必死に、至るとこまで」その権利のために戦ったと書かれ、再び先ほどの名言が引用される。
 エヴリンにとってヴォルテールの態度、教義を言い表す言葉が、まさに「お前のことは嫌いだが、お前が何かを言う権利は死んでも守る」だったのだろう。
 このことについて彼女は、上記の言葉が完全に自身の「創作」であったことについて、述べている。

The Phrase" I wholly disapprove of what you say and will defend to the death your right to say it" is my own expression 
(
Kinne, Burdette, "Voltaire Never Said it!", Modern Language Notes, 58, 7, The Johns Hopkins University Press, 1943, pp. 534-535.) 

 ただここで疑問が残る。ヴォルテールは1778年死去、エヴリンは1868年生まれ、1956年死去、つまりこの二人は同じ時代を生きたものではない。あくまでエヴリンは後世のヴォルテール研究の中で、エルヴェシウスとの関係を言及しただけで、それを実際に見聞きしていたわけではない。
 なら、本当にヴォルテールとエルヴェシウスの関係は、エヴリンの言う通りだったのか、調べなければならない。とはいえ、私は古代史専攻なので、近代史については研究方法などは素人当然である。そのため近代史家の皆さんの力を借りるにとどめ、ヴォルテール研究とエルヴェシウス研究の素晴らしい成果を利用させていただく。

 森村敏己氏は、エルヴェシウスとヴォルテールの関係についてこう述べている。

しかし、すべてを肉体的感性に帰着させるエルヴェシウスの主張はフィロゾーフにとっても受け入れがたいものだった。ヴォルテールは思想的・宗教的寛容の旗手として『精神論』への弾圧には怒りを表明し、エルヴェシウスにもフェルネーへの亡命を勧めるが、一切の利他的感情を認めず、すべての情念を肉体的快苦に由来する利己的なものとする主張には反対であった

――(中略)―― 

これに対するヴォルテールの批評は辛辣である。「私は君を嫌っていないし、恨みもない。しかし君を軽蔑する」
(森村敏己「エルヴェシウス; 功利主義における名誉心:道徳哲学から統治改革論へ」、『経済学史学会年報』30、経済学史学会、1992年、p. 38.)

 教会から迫害されたエルヴェシウスだったが、ヴォルテールは彼を庇いつつも、頑固で考え方を変えないエルヴェシウスに対し、もはや失望にすら近い反感の気持ちを示している。
 しかしここで再び、問題の原点に戻ろう。ここで重要なのは「差別」や「弾圧」を権利として認めるかどうか、そしてそれをヴォルテールの態度から見出せるかどうかである。

 そもそも差別とは何か

 それは権利の制限であることは、もはや語らずとも常識である。

 黒人はオリンピックに出られない、女は働くな、貧乏人に選挙権はない、などなど、多くの権利は、差別を通じて規制されてきた

 つまり差別を権利として認めてしまえば、また別の部分で権利が制限される。ただ、「人種差別や性差別には「賛成しない」が、それは「権利」として守るべきだ」という考えには続きがあって、それはつまりお互い差別しあえば、結果的に平等になる、というわけだ。まさにその態度をヴォルテールと重ねて、主張していきたいらしい。
 しかしここで疑問が残る。例えば黒人差別と白人差別がどちらも許可されると、当然「黒人VS白人」という構図が生まれるわけだ。つまりお互いがお互いを嫌いながら、お互いの権利を保障するという状況に落ち着くことが理想なわけである。ではこれをヴォルテールに置き換えればどうなるのか。

 「ヴォルテールVSエルヴェシウス」?

 いや、これは実は違うのだ。そもそもヴォルテールが批判していたのは「教会」による「エルヴェシウス批判」である。つまりヴォルテールが守ろうとした権利は「エルヴェシウス」のそれであって、「教会」ではない。もし先ほどの事例を借りるなら「白人」とは「教会」で、「黒人」とは「エルヴェシウス」と「ヴォルテール」である。せいぜいマルコムXとキング牧師の関係止まりだろう。エルヴェシウス批判はそもそも当時の教会の啓蒙思想全体への批判の一部だったことは、また別の論文で森村敏己が語っている。

まずヴォルテールがその頑迷さを手ひどく罵倒したことで知られる、いわばフィロゾーフたちにとって最大の敵の一人であったパリ高等法院次席検事ジャン・オメール・ジョリ・ドゥ・フルーリによる告発が示され、それに判決文、およびこの判決を受けて2月6日に開かれた法廷の決定が記載されている。ジョリ・ドゥ・フルーリもまたボーモンと同じく、『精神論』をこの世
紀を蝕む哲学の象徴であるとし、とりわけ『百科全書』との類似点を強調する。そして『精神論』を初めとし、ヴォルテールの『自然宗教』やディドロの『哲学断想』を含む七作品の焚書と、『百科全書』を検閲するための委員会の設置を求め、了承されている。

――中略――

このようにして、エルヴェシウス批判を通じて「百科全書』に打撃を与えるという高等法院の戦略は成功した。高等法院にしてみれば、『百科全書』さえ葬り去ることができればエルヴェシウス個人の処置などは二の次であったのかもしれない

――中略――

しかしソルボンヌにとって重要なのは、エルヴェシウスの思想的源泉を真剣に探求することではなく、エルヴェシウスを通じて啓蒙思想と戦うことだったのである。

(森村敏己「エルヴェシウスと『精神論』事件(1758-1759)」『一橋大学社会科学古典資料センター年報』12、1992年、pp. 13-14.

 正直、この状況さえ詳らかにすれば、もはや言葉を用いる必要は無い気もするが、あえて言おう。

 ヴォルテールは、他でもない自分自身の権利のために、エルヴェシウスの権利を守らなくてはいけなかった。

 エヴリンの目に映った、ヴォルテールの「例え個人的に相容れぬ存在であっても、教会の弾圧には共に立ち向かうべき仲間」だという姿勢が、まさに「貴方の言うことには反対だが、貴方がそれを言う権利は死んでも守る」という言葉に言い表されたわけである。

 こうした過去の名言を考えるにあたり、立場というのは非常に重要である。例えば女性差別や、人種差別に毅然と戦う人々に、

お前たちは差別をする権利を奪おうとしている。それではいけない。お互いにお互いを差別する権利を持とう

 と、新たな表現議論の問題提起をしたいのであれば、世間と社会の弾圧に真正面から立ち向かったヴォルテールを引用すべきではないし、エヴリンが創作した言葉も適切ではないだろう。

 自分たちの言葉に迫力を持たせたいなら、新たな偉人と名言を探すことをお勧めする。

・「正義の暴走」

 私はとてもTY〇E-M〇〇Nが好きだ。スピンオフ作品は殆ど目を通してるし、勿論彼らが作り出すゲーム、そして今流行りのソーシャルゲームも、ばっちりプレイしている。

 なぜ、その話を持ち出したかって?

 このトピックは、実は「シリアスな本編とは違ってギャグが主体で、かつあまり本編では目立たないキャラクターを主人公に据えたスピンオフ作品」と深く関わりがあるためである。
 ここ最近あるツイートがバズった。それは上の「スピンオフ作品」の一コマを引用したもので、だいたいこういった趣旨のものである。

「最も残虐な人は『悪に染まった』人間ではなく、『自分が正義だと疑わない』人間だ」

 文面はかなり変えているが、おそらくはこれだけでも多くの人がピンとくるだろう。それ以外にも、最近は何かと「正義の棍棒」だの「正義の暴走」だのをよく耳にする。ちなみに、その多くがフェミニズムとリベラル批判だ。どうにもフェミニストで、リベラリストなオタクである私にはSNSは中々に暮らしにくい。

 つまりその漫画の一コマを使って、「差別や格差をなくす」という正義の名の下で戦う人を揶揄したいわけである。

 この後きちんとこの言葉については検討するのだが、まず一つだけこれだけ言わせてほしい。

「漫画と現実の出来事くらい区別しなさい」

 さ、言いたいことは言ったので、もう正直残りは消化試合みたいなものだが、せっかくなので僕は「ギャグマンガの1コマ」とは考えず、真正面から向き合っていこうと思う。
 まず2つ問題提起をさせていただきたい。

「誰が『フェミニズム』や『リベラリズム』を『正義の暴走』だと決めるの?」
「何を基準にして『正義が暴走』していると判断するの?」

 この2点について、はっきりと「ボクが決める」「ワタシが基準になる」と言える人はいるだろうか。
 いるわけがあるまい
 なぜならこの「正義の暴走」という言葉には大きな欠陥がある。説明していこう。

 もし誰かがある「正義」を持っているとしよう。その正義は極めて個人的で、環境によって作り出されたもので、そして集団生活の中で育まれたものである。そこに疑いを持つものはおるまい。正義とは極めて主観的である。それについては私も強く同意する。
 ではその正義の限界は客観的に決定できるのか?
 否、無理だ。
 その正義の限界という尺度も、結局主観的な倫理観の産物でしかない。我々はどこまで行っても主観的にしか生きられないし、物事を判断できない。客観的であろうとすることは勿論努力として必要だが、一番重要なのは自分自身が「偏っている」ことを認めることである。自分が大きな思想に流されていることに気づくことである。
 それはいくつもの支流に分かれていて、気づけば遠くに流されるような激流もあれば、自分が流れにあることも気付けないくらい緩やかな流れもあるため、極めてそれを理解するのは難しい。しかし自分が何を正義と思い、何を不義と思うのかは、その潮流次第であると意識しておくことは非常に現代では肝要である。

 万人に通用する正義などないのだから、「暴走している」と判断できるような倫理観なんて存在するわけがない。
 「正義の暴走」という言葉で他人を批判することもまた、極めて主観的な「正義」に基づいていることに気づくべきであろう。

 つまり、「正義」という名前の棍棒を用いて他人を攻撃するのと同じように、「正義の暴走」という名前の棍棒で他人を攻撃しているだけにすぎないのだ。叩いているものを「悪」と呼んでいるか、「暴走した正義」と呼んでいるか程度の違いしかない。
 ある例を出そう。フランスの偉大な歴史研究者、フランドランは、かつてフランスにあった、非常に強烈な男尊女卑的世界を紹介している。

自分の妻を殴る権利は古い習慣のいたるところに認められる。一三世紀のボヴェのいいならわしはこう語る。「妻が夫の言うことを聞かないときは、殺したり不具にしたりしないかぎり、夫が妻を殴ることは正しいことである」。
(フランドラン、J. L. 『フランスの家族―アンシャン・レジーム下の親族・家・性』森田伸子・小林亜子訳、勁草書房、1993年、pp. 181-182.)

加えてフランドランは、妻が夫の性交渉を断ることが「罪」だったことも述べている。

妻はどんな場合でも、たとえそれが自分自身や赤ん坊の健康にとって深刻な危険をもたらすような場合であっても、自分を求める夫に対しては「義務を果たさなければならない。」そうしないと夫が自ら「罪に陥る」かもしれないからであり、あからさまな言い方をすれば夫が「自分で自らの情欲を満たす」ことになるかもしれないからである。
(フランドラン、J. L.、1993年、p. 280.)

 現代の我々の社会で、恐らくは多くの国で、言うことを聞かない妻を殴る夫や、妻の意志に反した性行為を強行した夫は罪に問われる。つまり明白にそれは「悪」である。しかし中世のフランスの一部の地域では「夫の言うことを聞かない妻」こそ「悪」であり、それを「殴る夫」はまさに「正義の鉄槌」であった。
 だとすれば近代に登場した男女平等の理念は、まさに「正義の暴走」を諫める声だったことになる。と、ここまでくれば「正義の暴走」という言葉の問題がわかるだろう。この言葉は、決して他者を批判することにおいて有効なものではない。それどころか、むしろ「いやそれを言うなら、ボク・ワタシたちこそが、最初に暴走した正義を批判したのだ」と反論されて終わりだろう。

 その言葉によって生まれるのは、実に空虚で無益な責任転嫁の応酬だけである。「正義の暴走」という言葉は、生まれた時から既に巨大なブーメランだったわけである。まずは自分自身の「正義」について、しっかりと考えておくべきだろう。

 しかし一体なぜ「正義の暴走」という言葉が今になってこれほど流行しているのだろうか?

 以下はエーリッヒ・フロムの『悪について』の一節である。

人間は善でも悪でもない。人間が善しか持ってないと信じるなら、事実をばら色に歪曲せざるを得なくなる、あるいは苦い幻滅を味わうことになるだろう。逆に人間は悪であると信じるなら人は冷笑的になり、他人や自分が持つ多くの善の可能性が見えなくなってしまうだろう。現実的な考え方としては、潜在的にはどちらの可能性も存在すると考え、それぞれを発展させる条件を研究するということになる。
(フロム、エーリッヒ『悪について』渡会圭子訳、筑摩書房、2018年、p. 171.)

 ここでフロムの言う善悪とは、やや特別な定義である。悪とは「ネクロフィリア(死への愛情)、ナルシズム、近親相姦的共生(母体への固着)」の三つだ。そして善とは、「バイオフィリア(命への愛情)、他者への愛、独立心」である。我々は人間である故に、この二者択一を常に迫られる。
 しかし重要なことは、この二者択一で、常に善と悪の二つから、善を選択する、もしくはそれを可能にする自由であるとフロムは詳説する。

悪とはヒューマニズムの重荷から逃れようとする悲劇的な試みのなかで、自分を失うことである。
人間は――(中略)――言い方を変えれば、善であり同時に悪でもあるという傾向を持つ。両方への傾きのバランスがある程度取れていれば、彼は選ぶ自由を持つ。――(中略)――しかしその人の心の傾きのバランスが崩れるほどかたくなになってしまったら、もう選択の自由はない。
人間は自分の行動を選ぶ自由がある限りにおいて、それに対する責任がある。――(中略)――
悪は人間的であり、退行と人間性の喪失を起こす可能性があるからこそ、私たち誰の内部にも存在する。それを自覚するほど、他人を裁く立場に立てなくなる。
(フロム、エーリッヒ、2018年、pp. 208-210.)

 フロムは誰もが持つ悪、それを自覚したときに初めて善たる選択が可能になることを述べる。しかし自分が悪を内包することを理解するほど、責任をとること――フロム流に言えば「自分のしたことをわかっている」という状態――が難しくなる。

 ここで再び「正義の暴走」という言葉を、フロムの論の中で解釈しよう。「正義の暴走」という言葉を「自分の気に食わない思想」に対して躊躇いなく使うことは、人間の善性への不信が原因である。勿論フロム流の定義で言えば、フェミニズムやリベラルも決して「善」ではない
 ここで問題なのは、自分が拒否する考え方を、個人的な論理基準、つまり自分の持つ考えに従って否定するのではなく、まるで「絶対的で普遍的な尺度」から俯瞰したかのような姿勢である。上述したが、「正義の暴走」と言うことは、単に主観的な倫理判断に基づいて、他人の正義を批判するのと変わりはない。しかしこの表現は、本来特定の思想に対する「批判者」であるはずの自分を、対立思想関係の外側に置こうとする試みでもある。

 簡潔な例を述べよう。

 思想Aと、それに敵対する思想Bが存在する。
 この場合、自分は思想Aか思想B、もしくはそれ以外の思想Cを捻出する自由がある。ある人は思想Aを選び、「正義」という名の個人的信条を強弁する。そんな思想Aの態度を嫌う、もしくは反対の立場をとる人は、対する思想Bを選択するか、それ以外の思想C(これは決して『中立』という便利な立場ではない)を作ることを選ぶ必要がある。しかし「冷笑的になり、他人や自分が持つ多くの善の可能性が見えなくなってしま」った人には、思想の選択ができない。そして同時にそれは「自分は悪くない」「それは自分の考えではない」という主体的な責任の放棄でさえある。自分がどういう潮流に流されているのか、どういう力に突き動かされているかすら考えない。いや、考えようとしない。

 「正義の暴走」という言葉の正体は、極端な正義への忌避感というよりも、自分自身は熱に浮かされた狂騒の外側にいる、いや「いるにちがいない」という強烈な思い込みである(無論、ただ流行ってるので使ってるだけの者も多いだろうが)。これは差別主義者が良く用いる「私は差別主義者ではないが~~」というフレーズにも共通しているだろう。

 しかし、近現代は、そういう「正義が暴走」していた時代だったことは間違いないのだ。ポグロム、ホロコースト、アルメニア人大虐殺、ISIS、特攻隊、スーダン軍の民主化デモ弾圧、ゴードン暴動……世界のあらゆる場所で、「正義」の名の下で人が死んだ。宗教の違い、人種の違い、思想の違い、あらゆる違いが生み出した隔絶を、正義というものが恐ろしいまでに醜い物へと変貌させた。

 だが、改めて考えると、これは決して正義が暴走しているわけではないのだ。そもそも人を殺すこと、弾圧すること、隷属させること、これはどうあっても批判されるべき行為である。そういう行為を正当化するべく、「正義」という言葉で体よく虚飾しているだけなのだ。

 カッシーラーはこう言う。

 自由は人間の生来の相続物ではなく、それを所有するためには、われわれはそれを創造しなければならない。人間がただその生来の本能に従うにすぎないなら、彼は自由を求めて努力しようとはせず、むしろ隷属することを選ぶであろう。――(中略)――自由が非常にしばしば、特権というよりも、むしろ重荷と考えられている事実を説明するものである。きわめて困難な状況のもとでは、人はこの重荷を振り捨てようとするが、まさにここにおいて全体主義国家や政治的神話が登場してくる。新しい政党は、少なくともこの窮地からの脱却を約束する。彼らは自由にたいする感覚そのものを抑圧し、破壊するが、同時にまた、人々を一切の個人的責任から解放する
(カッシーラー、エルンスト『国家の神話』宮田光雄訳、講談社、2018年、pp. 492-493.)

 カッシーラーの以上の文は、全体主義国家の台頭に対し、それがしばしば我々の想像する抑圧、つまりなんらかの行動を要求したり、禁止したりすることではないことを述べている。彼流の言葉で言えば、それは「蛇がその獲物に攻撃を加える前に、それを麻痺させる」ような抑圧であった。
 カッシーラーは自由には二種類あることを述べる。一つは政治的自由、これは我々が普段よく目にするものである。

いずれの政党も、自分がつねに自由を真に代表し、擁護するものであると確言するが、しかし彼らは自由という観念を、つねに自分自身の意味で定義し、それを自分の特殊利益のために使用するのである。
(カッシーラー、2018年、p. 491)

 しばしば目にするが「自由の攻撃者」と他者を攻撃しながら、己を「自由の擁護者」と自称するのも、所詮、お互いの持ちうる自由の範囲を、「自由」を使って攻撃しあっている図に過ぎない。
 カッシーラーの言う、真の自由とは倫理的自由である。

倫理的意味で、人が自由な行為者であるのは、こうした動機が道徳的義務の何たるかについての彼自身の判断と確信に依存している場合である。――(中略)――われわれが行動において服従する法則が外部から強制されるものではなく、道徳的主体がこの法則を自分自身に与えるものであることを意味している。
(カッシーラー、2018年、p. 492.)

 この倫理的自由からの解放、これこそ全体主義国家が民衆に約束し、与えるものである。それを踏まえると、近現代に起きた数々のジェノサイドは、そうした自由から解放され、倫理的判断という責任から逃れた結果である。人々が隣人に容赦なく刃を突き立てるような真似をできるのは、倫理的判断を自分ではなく、他人に任せてしまったためである。つまり人を暴動へと駆り立てるものは、頑固で自分本位な正義ではなく、むしろそうした正義について人間が生来持ちうる権利の一切を放棄したためである。

 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とはよく言ったものだ。

 流石に引用するだけじゃまずいので、そろそろ私の意見を述べて結論にしよう。 
 ここで再び本題に戻る。何が正義なのか、何が善なのかについて、自分なりの意見すら持たずにいたい、つまりあらゆる責任の遺棄を望んだ結果、思想を批判しながら、自分自身はその対立構造の埒外に身を置くという、不可思議な状況を与えるのが、この「正義の暴走」という言葉である。

 しかしこうした混乱は、「責任の破棄」、「自由からの逃避」だけが原因ではあるまい。それはインターネットの普及が第三の要因である。我々現代社会の人間は子供のころから、極端に言えば「生まれたその時」に、非常に夥しい量の「正義」に直面する。この「大量の正義」は、恐らく個人の思考や倫理観を成熟する前の人間に眩暈を引き起こすだろう。そこでは普段自分が目にしないような、考えもしなかった問題が提起され、そして馴染み深い文化や社会が批判されている。もしそんな環境下に置かれたのなら、多くの人間は正義から目を反らすよう、助言してくれるような「わかりやすい先人の言葉」に従うであろう。

 それは破棄や逃避のみならず、防衛本能でさえあるのだ
 「正義の暴走」という言葉を好んで用いたがる人間は、思想の加害者であると同時に被害者でもあるのだ。ひょっとするとそれは、我々が今後解決すべき問題であるのかもしれない。


・終わりに

 今回のこれは社会問題の解決とか、そんな大それたものではない。所詮は自分の頭の中で渦巻く思想の混乱を、キーボードを叩いて整理するためのものである。これを読まれた方はくれぐれも、このnoteが「ある一人の男の身勝手で独善的な正義」から生まれたことを忘れないようにしていただきたい。

 多分今後、こうやってSNSではしたりないキーワードや問題について、自由に論じていこうと思う。御覧の通り、推敲とかは全くしていないので、恐らくは非常に乱雑で見にくい文面になることをご了承いただきたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?