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タイトルの行方

雨になった。
朝の天気予報では降水確率は 30% だと言っていた。
降るか降らないか、どちらとも取れる数字だ。

村中真理子は傘をささずに歩いている。
薄手のナイロンで出来たレインコートを羽織り、かなり履き込んだジーンズとデッキシューズを履いている。
髪を後ろで束ね、一見するとしているかしていないか分からないほど巧みに施されたメイクをしているが、それは装飾というより人に会う場合の儀礼的な意味合いが大きい。
はっと目を引く美人ではないが、注意して見れば大変に美しい女性である事が分かる。

彼女は歩道沿いに停めたサックスブルーのステイションワゴンの脇に来ると、ジーンズのポケットからキィを取り出して開錠した。
乗り込む前にレインコートを脱ぎ、二度ほど水滴を払った。
水飛沫が彼女を取り巻く様に広がる。

父親から譲り受けたステイションワゴンをほど良いスピードで進めた。
カーラジオを点けたが、彼女の気分に合う音楽がかかっていないので消した。

彼女は今年で 40 歳になる。
結婚は一度したが子供はいない。

10 分ほど走ると、古いビルの 1 階にあるパブリックバーに着いた。
ビルの脇にあるスペイスにワゴンを停め、彼女は少し迷ってからレインコートはバックシートに置いたままで外に出た。

バーは夕方の早い時間にも関わらず満席に近かった。
ウエイターが近寄ってきて一人かと尋ねた。
待ち合わせだと告げると、彼は左手を店内に向けて広げ、どうぞと言った。

「真理子」

遠藤康平は窓際のテラス席でビールを飲んでいた。
彼は真理子の元夫であり、現在彼女の最も仲の良い友人でもある。

「ここから見ていた」
「私を?」
「そう。君を」

真理子はウエイターにビールを頼み、濡れて湿っている髪を解いた。
遠藤と真理子は 20 代の初めに知り合い、その翌年に結婚した。
二人とも学生だったが、一緒に暮らす事が一番自然だと思えたし、遠藤は学業の側ら始めていた事業が上手く軌道に乗っていて、それなりの収入もあったので生活に困る事がなかった上に、真理子自身も出版社への就職が決まっていた。

「真理子」
「はい」
「今度、僕は結婚しようと思っている」

真理子は顔を上げて遠藤を見た。
遠藤は昔から冗談をよく言う男なので、今度もそうかと思った。
しかし遠藤の表情からは読み取れなかった。

二人が離婚したのは子供が出来なかった事が遠因にある。
二人とも子供が欲しかったのだが、不妊治療を受けても授かる事がなかった。
それぞれの仕事は順調で、それ故にお互いを慮る機会を失っていった。

「そういった方がいるのね」
「そうだ」
「あなたがそうしたいと思うのなら、私は賛成だわ」
「そう思うか」
「はい」

雨のせいか、外は既に暗くなり始めていた。
表通りを通り過ぎる車のヘッドライトが、窓に付いた雨粒に反射している。

「相手の方は、あなたの意思をご存知なの?」
「まだ言っていない」
「とても大切な事だわ」
「そう」

遠藤も真理子も離婚してからは友人として付き合ってきた。
それは知り合って結婚していた時間よりも長くなった。
お互いに恋愛をしていた時期もあったが、どの相手とも結婚には至らなかった。

「それを確かめる術はないのだろうか」
「康平さん」
「うん」
「それはしてはいけない事だわ」
「そうか」
「確かめなければ分からないのなら、その時点で何も相手を分かってないという事」
「しかし、この年齢になって振られるのは回復に時間がかかる」
「それが嫌なら恋愛なんかしてはいけないわ」
「そうか」
「たぶん」

遠藤はウエイターを呼びビールを追加した。

「真理子」
「はい」
「結婚したら、君とは友達ではいられなくなるかな」
「そうね」
「やはりそうか」
「友達の定義にもよるけど、おそらく一般的には無理でしょうね」
「一般的に」
「そう、一般的に」

ウエイターがビールを運んできた。
遠藤は受け取り、軽く口を付ける。

「友達でいられないのは残念だ」
「そうね。とても」
「何としてもそれは避けたいが、結婚もしたい」
「難しいわ」
「そうかな」

真理子はまた遠藤の顔を見た。
遠藤も今年で 40 歳だが、定期的に行う運動と摂生のせいで実際よりも若く見える。
ベージュのコットンスーツにギンガムチェックのボタンダウンを着ていた。

「本当に?」
「そう」
「良いのかしら」
「ちゃんと言わせてくれ」
「はい」
「真理子」
「はい」
「僕と結婚してくれ」

これは「たぶん」片岡義男さんの作品だと思う。
「たぶん」というのは、これが、かつて書いていた別のブログの下書きとして、かなり昔に書いていて、その時間抜けなことに作者や作品のタイトルを残しておかなかったので、最も大事な情報がないまま宙に浮いていた投稿である。

作風というか、文章全体から受ける印象は片岡義男さんそのものである。
登場する人物のディテール、生き方。
あるいはその人物が着用している服、使用しているもののディテール。
風景の色彩。

だが、これが片岡義男作品である、と言いきる自信がない。
ネット上をあれこれ検索してみたが、該当するものが見つからない。
どなたか、これがどの作品であるか、ご存知ではないだろうか。

この文章の登場人物である村中真理子が着ているものやステイションワゴンを運転する場面の描写が好い。
まさに理想的である。
また遠藤康平の、どことなく飄々とした雰囲気も好ましい。

片岡義男作品に登場する人物は(主に主人公だが)ほとんどが大変な美女や美男である。
顔の造作が、というのではなく、身体つきや所作、もっというなら生き方そのものが美しい。
ある程度年齢を重ね、それに伴うさまざまな変化(身体的にも精神的にも)を実感すると、彼らの存在がなんとも羨ましく思える。

ああ、また長くなってしまう。
片岡義男さんの作品については、また改めて書こう。

とにかく。

この文章に見覚えのある方、いらっしゃらないだろうか。

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