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選択

(2011年に書いたものを加筆再掲)

随分前に「銀塩モノクロは古文じゃなくて古典」というような文章を書いた。(2023年加筆)
旅するカメラ4を読んでいたら、この元ネタになっていたのは渡部さとるさんのツイートだったのを思い出した。
渡部さんは「銀塩モノクロ」という括りじゃなくて「モノクロ」という意味でツイートしたものらしい。
古文は現代では使わない文章なので、あえて今どきにモノクロをやるなら、「何でモノクロなの?」と言われないようにするくらいの覚悟をもってやろうよ、というようなこと。

うーん。
残念ながら僕にはそこまでの力量も覚悟もない。

写真は選択だと思う。
大上段に振りかぶってしまったけど、撮影でも画角の制限がある以上は目に入ってくる光景の何を選択するか、ということから始まり、絞りやシャッタースピードを選択し、フィルムやISO感度を選択し、カラーかモノクロかを選択し、たくさん撮った中からこれと思うものを選択し、紙を選択し、焼き具合を選択する。
実際にはもっとあるかも知れない。
自分の目で見たオリジナルがある以上、写真という複製品はコピーであるが故にオリジナルという枠に縛られる。
ここらが絵画とは違うところだと思う。
絵画はオリジナルをどう解釈するかという点だけで複製品ではないからだ。
絵画教室に通っていた頃からそれは感じていて、デッサンなどは別だけどもオリジナルを解釈するという作業をしている段階で、すでにオリジナルは再構築されているのだ。
写真ではオリジナルはオリジナル、ネガ・ポジにおいても、それらはオリジナルのコピーでしかない。
だからそれらを自意識や何らかの直感でコントロールしうる選択を繰り返すことで、何とか最後の段階(プリントなど)で再構築する。

そう考えれば例えばこの写真はブレている写真であるが、一般に失敗写真であるので、これもまた選択で弾かれる。日の目を見ることがない写真である。
しかし選択であるということは弾く、弾かないはどちらでも良いのだ。
弾かないことで、オリジナルではブレるはずのない光景がブレている世界として再構築される。
つまり「写真たりうる」ということだ。

冒頭、銀塩モノクロは古典であるというロジックは未だに変わっていない。
でも、それすら選択の一つである。
モノクロにもデジタル、フィルムがあり、その二つにも数々の選択肢がある。
それらのものの基礎ではあり得るし、一番不自由で一番自由な選択でもある。

一番不自由だと書いたのは、何しろ色彩がないことだ。
カラー写真が基本になっている現代ではなお更である。
しかしオリジナルでカラーな世界をモノクロ化する時点で再構築の一歩が始まっていて、逆に言えばオリジナルに縛られる要素の一つである「色」からは完全(ではないにしても)に解放される。
フィルムの10EVというすさまじいダイナミックレンジ(ラチチュードか)は、少なくとも今の段階ではデジタルでの再現は難しい。さらには、それゆえに焼き込もうが覆おうが自在である。
これが自由さでもある。

小難しい話になったが、やはり選択はできた方が楽しい。

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