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1985年8月12日

1985年8月12日は月曜日だった。
太平洋高気圧が勢力を増したせいで、大気の状態は不安定だったが、東京は晴れのち曇り、最高気温は摂氏31.5度、湿度72パーセントと、この時期らしい蒸し暑い一日だった。
翌日からの盆入り控え、下りの幹線道路は乗用車で溢れ、高速道路は数10キロの渋滞となっていた。
新幹線も10日から14日までで360万人の帰省客を運び、夏休みを海外で過ごそうという旅行客は、成田からだけで50万人を超すとみられていた。
国内線も3週間前からほぼ満席となっていて、各航空会社は積み残し防止のため、ひとつ前の便への案内をしていた。
羽田発大阪行きの最終便は午後7時35分だった日本航空が、そのひとつ前の123便が僅かに空席を残しただけで509人の乗客を案内したのは、こうした措置の結果であった。陽が落ちるのが早まったと感じられる午後6時12分、JAL123便は定刻から12分遅れで羽田空港を離陸した。
この123便はボーイング747SR型。
SRとはショートレインジ、つまり短距離輸送用。
頻繁な離着陸に対応するために、脚部や主翼を強化した日本だけの仕様である。
機体番号はJA8119。
この日は東京〜福岡などを往復し、5度目の飛行になっていた。
ローンチはワシントン州シアトルで1974年1月。
この時、18,835回のフライト、総飛行時間は25,030時間と記録されていた。3時間15分ぶんの燃料を搭載して、2万4,000フィートに上昇して水平飛行に移り、時速467ノットで千葉県館山の東56キロから静岡県焼津の南を経由して、紀伊半島沖で右に旋回して北上、約1時間で大阪空港に着陸するフライトプランであった。ボーイング747は3名のクルーで運航される。
機長は高浜雅己(以下、敬称略)、49歳。総飛行時間は12,423時間、ジャンボ機については、1975年にボーイング747の操縦免許を取得してから4,842時間22分の経験があった。
副操縦士は佐々木祐、39歳。フライトエンジニアの福田博は46歳である。
この日は佐々木が機長昇格を目前にしていたため、通常とは違い副操縦士が操縦桿を握っていた。当時、日本航空には20,500余名の社員がいた。
午後6時30分、港区の高輪プリンスホテル地下1階の宴会場プリンスルームでは、高木養根社長ら10名の重役など400人を集めたパーティが始まった。
常務を退任した吉高諄が関連会社の空港グランドサービス社の社長に就任したことを祝うパーティであった。
本人の挨拶が終わったのが午後6時50分ころ。
それから10分ほど経ったころ、運航本部のひとりがホテルの係から「お電話です」と呼び出される。
同時にあちこちでポケット・ベルが鳴り始める。
M副本部長は関連会社の社長と談笑中に 部下の課長から耳打ちされる。
「大変です。123便の機影が消えました」
「123便って、何の便だ?」
「羽田発大阪行きです」
会場は一瞬のうちに緊張とざわめきに包まれた。
123便は予定のコースを大きく外れて北上し、6時50分に長野と群馬の県境付近でレーダーアウトした。 第一報が入って数分後には、パーティ出席者の半分が会場から飛び出した。 
123便の異常は離陸12分後の6時24分35秒に起きた。
伊豆半島南部の東岸上空、まもなく高度24,000フィートに達し、水平飛行へ移行しようかとする矢先である。
「ドッシャ」
という激しい衝撃音がフライト・ボイスの両レコーダーにも記録されている。
その瞬間、機首が8度も持ち上がった。異常音を感じたとき、機長がとっさに考えたのは車輪が何かのはずみで出て、その衝撃でバランスを崩したのではないか、ということだった。
航空機関士に「ギアみて、ギア」と指示している。
が、車輪に異常はみられなかった。ほぼ同時の24分42秒、機長は地上にスコーク77を発した。
同57秒、操縦に必要な油圧装置に異変が見つかる。
コクピットは羽田への帰還を考えたのだろう。
25分16秒、機長は副操縦士に右旋回を命じている。
しかし、油圧装置に異常をきたした機体は、このあたりからすでに迷走を始める。
群馬県医師会は過去に大久保清事件や連合赤軍事件があり、数多の殺人・変死の検視経験がある。
それでも今回の事故現場では「全身挫滅」「全身挫砕」といった用語を新たに考え出さねばならなかった。
死体検案書には「左腕以外全身挫滅」「下顎骨を除いて全身挫砕」というような表現が繰り返し使われるようになる。  内科・外科の医師がペアを組んで検視に当たった。
遺体に歯や顎骨がついているとは限らないので、歯科医はチームから外れ、また遺体の性別が判断しにくいので産婦人科医も除外された。
遺体が女性だとわかれば呼ばれる。
立ち合った産婦人科医の佐藤仁は
「妊娠した女性がいる、というので検視したんです。
ちょうど8ヶ月くらいのお腹だったですか。
ところが違ったんです。
腰の骨もあばら骨もぐちゃぐちゃに粉砕されて、お腹のところでひとかたまりになって、それが妊娠しているように見えただけなんです」
「もっとかわいそうなのが、骨が何もついてない皮だけでね。
恥骨からお尻にかけてのあたりなんです。
そこに陰毛と膣と肛門の入口だけがついてる。
それでも妊娠したことのない女性のものだとは判定できましたが、こんな遺体があるだろうか、と思いましたよ」
その日の深夜の会議で、翌日からは群馬県医師会全体で検視に取り組むことになった。あまりにも 犠牲者が多く、また検視にも時間がかかるので、人海戦術である。
一刻も早く検視を終え、遺族の元に帰してやりたいと思う気持ちはもちろんだが、検視を急ぐ理由は他にもあった。
ウジである。
初日にはほとんど問題にならなかったが、現場から3日目、4日目になって収容された遺体のほとんど全部に、すさまじいウジが発生していた。
イエバエのウジは成長しても12ミリ前後といわれる。
腐乱死体の死後時間を推定するひとつの目安は、このウジの成長だったりもする。夏場なら産卵した直後にウジになり、2日で7ミリ、5日で12ミリに成長し、そこでハエになる。
法医学の教科書には必ず登場するこうしたウジの発生は、体育館に運ばれた遺体についたウジにはまったくあてはまらなかった。
遺体についたウジは通常の12ミリの成長限界を超え、15ミリ、20ミリ、さらには25ミリにもなった。
身元確認のための資料収集は検視作業と並行して始まっていた。
遺族から着衣や所持品、身体的特徴を聞き取る一方で、所轄警察署から鑑識課員が、死亡した乗客の自宅や会社のデスクから指紋と足紋を採取した。
胴体から離断した脚や足首の多い今回の事故では、足紋の採取は欠かせない仕事だった。
警視庁鑑識課から群馬へ応援にいった係官は
『サラリーマンの在宅指紋として送られてきたものには、会社の机、手帳などから採取されたものが多く、家庭から採取されたものは比較的少なかった。
なかでも酒便から採取されたものしかなかった人もいた。
家庭でも夫のポジションが想像できて、同世代として寂しさを感じた」
と述懐している。

吉岡忍 墜落の夏 -日航123便事故全記録-より抜粋

その日も暑かったと記憶しているが、夏なんだからその日だけのことではないだろう。
昼間は何をしていたか覚えてないが、夕方からはバイトだったと思う。
僕は大学2年で、時間だけは死ぬほどあった。
バイト先はレンタルレコード店で、そこで聞いていたラジオから臨時ニュースが流れたのは、やはり8時くらいだったのだろう。
ジャンボが行方不明?そりゃ、まず落ちてんだろ。
そんな会話をバイト仲間としていた。 

家に帰って飯を食っていると、親父が「何だ、テレビ全部特番だな」とつぶやくのが聞こえた。
日本航空は1982年に羽田沖で墜落事故を起こしていたのが記憶に新しく(やっぱり日航はアカンな)とか軽口を叩いていた記憶がある。
部屋に戻ってテレビを点けると、やはり全ての局が報道特番だった。

搭乗者名簿だろうか。
僕はベッドで寝転がりながら、それを聞いていてウトウトしてしまった。
風呂に入れと呼ばれて起きた時にも、まだ名簿が繰り返し読み返されていて、名前が羅列される画面を見ながら、まるで映画のエンドロールみたいだと思った。

520名が絶望。
520?
意味がよく分からなかった。 

僕は昭和41年生まれで、連合赤軍のあさま山荘事件が古い記憶にある世代だが、その日まで自然災害、事故を問わず、それほどたくさんの人が一度に亡くなる事件というのは身近ではなく、それだけの人が一度に亡くなるとはどういうことか、その意味を量りかねていた。

本当に不謹慎だと思うが、僕は一種の高揚感を感じていた。
子供が台風とかで興奮するのと同じだ。
退屈な夏休みの最中、降って湧いたような事件、事故というのは、ダラけ切った頭を刺激するのは十分すぎる出来事だった。
野次馬根性ここに極まれりだ。
結局一晩中、テレビを眺め続けた。 

状況がわからぬまま夜が明けて、事故の全貌が分かり始めると僕は冷水を浴びせられた気持ちになった。
何もかもが想像を超えていた。
数週間後に発売された、現場写真が載った写真週刊誌を見て、さらに竦然とする。空襲で焼死した人の古い写真を見たことがあったが、それが思い起こされた。

大阪・吹田市の住宅地に住むI君はたった一人で二階建ての家で暮らしている。
「夜、帰ってくると家が真っ暗ですよね。前は母さんや父さんがいて、いつも電気がついていたのにって考えると、うん、やっぱり ... 寂しいですよ。暗い家にもどってくるのは、まだ慣れないです」
あの事故でI君は36 歳の母親と中学3年の妹を失った。
残されたのは父親とI君、そして5歳になったばかりの弟の3人だった。
事故直後、父親はI君に「3人になってしまったが、なんとかがんばって、やっていこうな。一周忌には、母さんと妹が死んだ御巣鷹山に一緒に登ろうか」と言った。
しかし、事故から4ヶ月後、今度は父親が亡くなってしまった。
事故のあとの心労が重なって吐血し、敗血症を併発した。43歳だった。
弟は近所に住むお婆ちゃんと伯父さん家族と暮らすことになった。
彼は一人きりになってしまったのだ。

父親の話では、事故の日夕方5時過ぎに妹から電話があり「今東京だけど、これから帰る」と言っていたという。
父親はてっきり東京駅だと思ったらしい。
しかし実際には羽田空港からの電話だった。
ふたりは夜7時初の全日空便を予約していた。
お盆休みをひかえ、席はなかなか取れなかった。
ところが空港にきてみると、1時間前に日航機に空席がある。
「早く弟に会いたい、と母さんは思ったんじゃないかなぁ。弟は甘えん坊で、母さんのあとばかりをついて歩く子だったから。それであの飛行機に乗っちゃったんです」

夜中のうちにバスに乗り、群馬方面に向かった。
まだ墜落地点は特定されていなかった。
父親とI君、それに伯父と伯母が一緒だった。
バスには他の被災者の家族もいる。
「知らないうちに眠ったらしい。なんか嘘みたいだった。でも目が覚めたら、バスの中にいる。あ、やっぱり事故はほんとだったんだ、と思った」
「母さんや妹がどんなところで死んだのか、どうしても見たかった。こんな山の中で、と思うと、言葉も出なかった。
悲しいというのとは違うんです。
早く見つけてやりたいと ... 夢中でした」
母親の遺体が確認されたのは、I君がたまたま大阪の自宅に戻った8月22日だ。
妹の指紋採取がうまくいかなくて、もう一度やりなおすというので、彼は現地を離れたのだった。
白のサマーセーター、黒いスカート、黒いハイヒール、それに歯科資料が決め手になったという。彼は遺体を見ていない。
それから2日後に確認された妹の遺体には下肢がなかったようだ、と彼は言う。
ミニスカート、緑色のランニング風ベスト、そしてやはり歯のカルテが確認材料になった。
鼻から上は包帯で巻かれ、大きな瞳も長く垂らした前髪も見えなかった。
わずかに重なった前歯が見えた。笑うとかわいかった歯だ。

遺体を確認した藤岡市にいるころから父親は食欲を失っていた。
大阪にもどり、通夜があり、告別式をすませると、気落ちした様子が見て取れるようだった。
それでも自転車で通勤し、慣れない料理や洗濯をし、男3人の家庭を維持するために必死だった。
子供たちに夕食を食べさせたあとは、ひとり仏壇の前に座り、線香の煙が立ち込める部屋にこもって酒を飲んだ。
「父さんはつらかったんだと思う。僕は友達と話したり、遊びにいっちゃえば気晴らしができたけど、父さんはうちでじっとしてることしかできなかった。
弟はまだ小さいから、話し相手にはなれないし、家のなかの仕事もしなくちゃならかなったし ... 僕、今ひとりでやってると、父さんは大変だったんだな、とわかるんです」

10月27日夕方、外出していたI君と弟が帰宅すると、父親は奥の部屋で寝ていた。
布団も敷かずに苦しそうに横たわっていたのだ。
翌朝、父親はトイレで激しく吐いた。すでにこのとき、胃からの出血があったのかも知れない。
しかしI君には詳しく話さず、仕事に出かけてしまった。
そして仕事先に隣接した兄家族の家で吐血、吹田市民病院に運ばれたが、また吐血し、急遽開腹手術。当初は命には別状のない病気だった。
4日後容体が急変、再度手術が行われた。
最初の手術の後で注入していた抗生物質が胸腔に流れ込み、肺を圧迫していたのだ。しかも手術した箇所には大量に膿がたまっていた。
6時間半にも及ぶ大手術だった。
肋骨を切断したせいか、左の胸にはえぐれたような凹みができ痛々しかった。
それから2ヶ月間、父親は生き続けた。
もう意識はほとんどなく、I君が手を握っても、弱々しく手を握り返すのが精一杯だった。
12月に入ってすぐ、最初の危篤に陥った。
敗血症を併発したのだ。
I君やクラブの仲間、中学時代の友人の協力もあって輸血したことで小康状態になるが、それからは危篤と小康状態が交互にやってくるようになった。

I君は12月20日、前橋市のスポーツセンターにいた。
身元の判明しなかった離断遺体が周辺6箇所の火葬場で合同荼毘に付された。
22日、羽田から大阪に飛ぶ予定だった。
空港に着くと日航の社員がきて、父親が危篤だといった。
大阪について病院に駆けつけると、父親は完全に意識を失っていた。
薬の作用でなんとか反応しているだけに見えた。
同日夜7時35分、医師が臨終を告げた。
事故から4ヶ月と10日目。

その直前、親戚のひとりが堪りかねて東京の日航本社へ電話をいれた。
「今すぐ社長をよこせ。あの事故の遺族が死にそうなんだ。事故さえなければ、こんなことにはならなかった。遺族の苦しみがどんなものか、よく見ておいてくれ」と。
しかし日航からは誰も来なかった。
通夜に高木養根社長がきたとき、集まっていた遺族から
「死んでからきてどうなる、苦しんでいるところこそ見てほしかったのだ」
とつめよる場面もあった。

食事は伯父さんの家に食べに行く。お婆ちゃんや伯父家族が一緒のにぎやかな食事だ。それに弟もいる。
「弟はかしこい子なんです」
「母さんが亡くなる前は、すごい母さん子だった。どこに行くにも、ついてまわってた。でも、あの事故があってから、一言も、母さんのことを言わなくなってね。父さん、父さんって、そればっかりだった。父さんが死んだら、今度は父さんのことも口にしない。分かってるんだなって、かしこい子だなって ...  こんな弟ほっとけないですよ」
めったに遊びにはいかない、と彼は言った。
「楽しいことは、あんまりないほうがいいんです。どっかで食事しても、海水浴に行っても、家族できたら楽しいだろうな、なんてきっと考えちゃうから」

吉岡忍 墜落の夏 -日航123便事故全記録-より抜粋

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