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阿吽

向田邦子さんの小説に「あ・うん」というのがある。
もともとはNHKのドラマだったが、後に氏唯一の長編小説として発表された。
脚本として継続していたのだけど、氏が1981年に航空機事故で他界して中断してしまっている。

この小説は恋愛小説ではあるが昭和初期の戦争へ向う暗い時代の話でもあって、10代だった僕はピンと来なかった。
その後何度かドラマになったり映画になったりもしているが、小説が一番感情を移入しやすい気がしている。

「あうん」とは「阿吽」と書く。
仏教用語であり、口を開き最初の放つ音が「あ」そして最後が「ん」であることから、物事の始まりから終わりを指し、ひいては人生、あるいは宇宙の始まりと終わりを喩えているとされている。
つまり、この二体の仁王像の間には人の生死があり、そして宇宙が始まり終わっているのだ。

宗教観については多くを語れない。
語るほどの宗教観がないのだ。
昔、知り合いのアメリカ人に「日本人は仏教徒なのか」と聞かれたが、家には神棚があり伊勢や熱田、明治なんかの神社にも行く。
もともと仏教も大陸からもたらされたものであって、やはり日本は八百万の神、神道というのがおさまりがいいのではないだろうか。
しかし神道であるにせよ、自らの信仰として人に話せるほどの信心はない。
これは多くの日本人がそうではないか、と思う。
「日本人は無信教に近いよ。お寺にも神社にも行くし、クリスマスだってお祝いする」と言うと、そのアメリカ人は不思議そうな顔をしていた。

この「あうん」にしても「あうんの呼吸」とかで日常的に使う言葉であるにも関わらず、それが仏教用語だとは知らない。

無信教だというと何やら無節操な印象を受けるが、これもまた日本人の特質だと思う。
言い換えれば大らかであり柔軟性に富む。
これは日本の風土に根ざしたものであると考えている。
大雪も降れば大雨もあり、地震があり津波があり、火山があり台風もくる。
周りを海に囲まれ、国土を徒に拡張することもかなわず、その中で生き残るということは、絶えず復興を繰り返してきたということに他ならない。
痛手は痛手だが、悲しみに沈んでいては前に進むことができない。
海外から見れば異常なまでのオプティミズムで前進を続けてきたのが日本なのだ。

恐らくではあるが先の震災においても、誰もが気持ちの中で「必ず復興するだろう」と考えていたと思う。
どれほど壊滅的な被害を受けても、それを受け入れて粛々と立て直していく。
すべては終わり、そしてまた始まっていくのだ。

日本人にとって、それこそが「阿吽」であり、その発想こそが日本人であることではないかと思っている。

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