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野間大坊

名古屋は戦国武将を数多く輩出しているという話は以前に書いた。
江戸時代に名古屋城内にあった名古屋東照宮の例祭がもとになっている「名古屋まつり」では「郷土三英傑行列」なるものがあり、信長、秀吉、家康とそれぞれに関わりのある人物に扮した地元の人が(これは立候補などで選ばれる)練り歩いたりする。
子どものころは実家の前から「秀吉隊」が出発していくので、この三英傑は否が応でも刷り込まれている。

まあこの三人のあたりは学校で習ったりするし、いろんなテレビや本なんかでも出自について書かれたりドラマになったりするから、名古屋の方でなくてもご存知の方は多いだろう。

しかし、まあこれは言っていいのか悪いのか分からないけど、大事業をやってのけたにも関わらず歴史上の人物としては人気がない武将が、やはり名古屋出身であることは、ドラマでも描かれないし本などでも詳しく書かれたものでないと載っていないので、あまり知られていないのではないだろうが。

というぼくも、大学生になって車を運転するようになり、なにかの折にたまたま前を通りかかって石碑の文字を読んで初めて知った有り様だ。

それは「源頼朝」である。
鎌倉幕府を開いた武将であるから歴史的にも重要な人物だが、弟や親族への冷酷な対応などから人気があるとは言えない武将である。

生誕地は熱田神宮の東側、現在「誓願寺」という寺になっている場所である。
頼朝の母は熱田神宮大宮司藤原氏の娘で由良御前といい、その実家である藤原家別邸があった場所とされている。

前説が長くなった。
今日書きたいのは、その頼朝の父である「源義朝」の話である。

1159年(平治元年)、平治の乱に破れた源義朝は、数人の家臣と共に美濃から伊勢湾に出て知多半島沿岸から野間に落ちのびた。家臣の鎌田氏の義父である長田忠致を頼ったのである。義朝は正月を忠致宅で過ごすが、平氏からの恩賞を目当てにした忠致に浴室で殺されてしまう。現在,大御堂寺(野間大坊)には義朝の墓がある。その墓には義朝の最後の最期の言葉「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとされる。
この古事より墓には木刀に見立てた卒塔婆が大量に備えられている。

野間大坊は愛知県知多郡にあり、辺りは風光明媚な景勝地である。
波の穏やかな伊勢湾に面しており、海水浴場にも近く、夏には車が混み合うところでもある。

写真は名古屋にいるころのもの。
「鎌倉殿の十三人」を放送していたころは、多少人気が出たのだろうか。
こんな事件のあった場所であるにもかかわらず、名古屋では誰も子どもたちに伝えないのである。
教育とは...と考えざるを得ない。

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