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9.11(2010年)

明日は世界同時多発テロが起きた日だ。
今年も追悼式典が行われ、一部の人たちによるコーランを焼き捨てる集会などが話題になり、その日をリアルタイムで迎えていた人たちの胸には、あのショッキングなシーンが去来する。

だが名古屋に住む人たちにとって忘れ得ぬ9.11は、その1年前にもあった。
2000年9月11日から12日にかけて東海地方を襲った集中豪雨。俗にいう「東海豪雨」だ。

2000年9月7日頃から本州付近に前線が停滞しており、11日から12日にかけて、台風14号の東側を回る暖湿気流が前線に向かって流れ込んだため、前線の活動が活発となり、愛知、三重、岐阜県の東海地方を中心に記録的な大雨となった。 11日夕方ごろから、名古屋市をはじめとする東海地方を中心とした広範囲にわたり大きな被害をもたらし、2日間の積算降水量は多いところで600ミリ前後に上った。

名古屋市では11日の日降水量が、平年の9月の月降水量の2倍となる428ミリとなり、2日間の合計降水量が567ミリに達した。愛知県東海市では11日の午後7時までの1時間に114mm、日降水量492mmを記録した。

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凄まじい雨だった。
もちろんそれまでに土砂降りの雨は何度も経験している。
ああ、すごい雨だなぁ、と思うようなことも何度かあった。
だが、あの日の雨の降り方は、初めて「怖い」と感じたのだ。
ゲリラ豪雨というのは、もう今年に限れば毎日のように発生するが、当時はまだ「集中豪雨」こそあれ、昨今のような命の危険に晒されるような降り方はしなかったように思う。

ぼくは本当に運のいいことに、雨が強まってすぐに会社に戻ることができた。
その日は打ち合わせで、堤防が決壊して大きな被害が出た新川を渡って一宮市まで行っていたのだ。
雨自体は午後に入ってから降り続いていた。そこまでは普通の雨の日だったのだ。
夕方近くになって、降り方が尋常では無い降り方になってきた。幹線道路も所々冠水しているという。
でも夕立のようなもので、直ぐに上がるのだろうと思っていた。

当時の上司がニュースなどを見て「今日はもう帰れ」と指示を出したのが5時くらいだったと思う。
新幹線や高速道路などの公共機関の交通手段が運転を見合わせ始めたからだ。
上司の指示は的確だったと思う。
とにかくギリギリのタイミングで僕は地下鉄とバスで家に戻ることができた。
家では当時同居であった両親と娘が心細そうにしていた。

だが今度は定時まで仕事をしていた家人が家に戻れなくなった。
地下鉄の市役所から砂田橋の間が、どこかの駅の冠水で運転見合わせになってしまったからだ。
携帯が繋がり難くなっていて、家人は栄から公衆電話で連絡をしてきた。
家人の実家は天白区なのだが、そちらも被害が出ていて、駅から実家に辿り着くのは不可能だという。
ぼくは意を決して車で迎えに行くことにした。

雨はほとんど止んでいたように記憶している。
守山区内は比較的平常だったが、車は殆ど走っていなかった。
不思議に思っていると理由はすぐに分かった。
瀬戸街道の起点になる矢田の辺りが冠水していて、車が何台も水没していたのだ。

僕は脇道に逸れて、車が水没している場所を避けながら栄まで辿り着いた。
いつもなら30分から40分の道のりだが、2時間近くかかったと思う。

翌年同日、ニュースで1年前の東海豪雨を放映する局は一切なかった。
それはあの事件がアメリカで起きたからだ。

人の心は...などと揶揄するつもりはない。先にも書いたように日本人は「一時的な記憶喪失」を自ら起こして先に進むモチベーションを維持して来た。豪雨による被害も「語らず忘れる」ことで黙々と復旧してきたのだ。

この災害によって様々な問題が浮き彫りにされた。冠水して機能が麻痺した交通機関や道路には適切な処理が施され、行政の指示系統などの見直しも計られた。
ゲリラ豪雨という言葉も、このころから盛んに使われるようになった。

ここで「この災害から学ぶべきもの」だとか「忘れてはならない災害」とかを説くつもりはない。
だが、いつも普通に通ったり乗ったりしている道路や電車が、自然の力の前にはいとも簡単に機能を喪失してしまうという事実。そして自然というのは、我々の想像を遥かに超える力を持っているという事実。
これを思い知らされた出来事だった。

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