見出し画像

バラバラ

荷風の「墨東綺譚」は玉の井という赤線が舞台である。
青線、赤線の説明は省くが、売春宿の集まった場所であるのには違いなく、主人公が気持ちを寄せる「雪」とは、そこで場所で働く女性の事である。

古今東西、男女の色事は何かと揉め事の種になる事が多い。
素人は元より、こういった玄人と客という間にも悲喜交々、中々表沙汰には出来ない様な事件があったと聞く。

昭和七年三月七日、子どもが「お歯黒どぶ」に下駄を落とした。
近所の呉服屋が可哀想に、と、棒切れを手にどぶを突き回して探してやっていた。
すると一抱えもあるようなハトロン紙の包みが棒に引っかかって上がって来た。

この「お歯黒どぶ」とは玉の井のすぐ近くを通る下水溝で、その名の通り真っ黒な汚水がガスの泡をふつふつと浮かばせているような堀であった。
そんな場所なので犬・猫の屍骸は元より、玉の井の女性が出産したものの始末に困った嬰児を投げ入れたりするような事も屡であったらしい。

主人も大方そんな所だろうと手繰り寄せてみると、何やら紙から赤黒い血のような物が滲み出ている。
これは徒事ではない、と巡査を呼びに走った。
巡査が中身を解くと、それは男性の胴体のみの遺体であった。

さらに近辺を探ると、他に二つの包みが見つかる。
それぞれに首、下腹部が包まれており、他の部位は見つからなかった。

推定年齢三十歳前後。
解剖の結果、死因は鈍器による撲殺と分かった。
警察は聞き込みを開始、遺体の写真までを新聞に掲載したが、杳として身元が分からない。
この事件のお陰で玉の井の銘酒屋は客足が途絶え大きな損害を受けたという。

懸賞金まで賭けたものの迷宮入りの可能性が高まってきた九月、枕崎派出所の巡査が嘗て不審尋問をした男が、この身元不明の遺体の特徴に似ている事に気付く。
男の名前は千葉龍太郎、八歳になるきく子という子どもを連れていた。
身の上話を聞くうち巡査は千葉に同情し、子どもを引き取り千葉に仕事を斡旋してやるが、どれも三日坊主で辞めてきてしまう。
何度かそんな事を繰り返した後、巡査はこれでは埒があかないから、と旅費を渡し、郷里だという秋田に送り返していた。

調査の結果、千葉は長谷川市太郎宅に寄宿していると分かる。
長谷川に聞いた所、千葉は二月頃に家を飛び出した切だと言う。
長谷川は家具職人であったが、最近は仕事もせずに千葉に春画を書かせては売っていたらしい。
絶えず揉め事があったと長谷川が話すが、それは千葉が春画の売り上げを勝手に使ってしまう事が主な原因だったという。

ここからは当時の時代背景が色濃く表れる話になる。

長谷川には「とみ」という妹と「長太郎」という弟、そして母親がいた。
とみは銀座のバーで働き、弟は東大工学部土木課で印刷工をしていたが、二人の給料だけで一家四人が生活出来ず、電気も止められていたという。

そんな折、長谷川は千葉と出会う。
千葉は持ち前の口達者振りを発揮して、秋田には財産がある、事情で今はルンペンに身を窶しているが、世話になるからには将来お礼がしたい、と長谷川を口車に乗せる。
長谷川はそれを見込んで千葉を引き取ることにした。

当時とみが内縁だった男性に逃げられ、父親のない子どもを産み落としていた。
母親は半ば嗾ける様にとみに千葉と肉体関係を持たせ、千葉が父親となるように仕向けた。
そうした関係ができると長谷川は千葉に郷里の財産を処分してこい、と詰め寄る。
着物などを質入して工面した旅費で秋田に向かわせるも、なかなか戻らず、ようやく戻ってきたと思えば小作争議などで田畑を売却するどころではなかった、と言い出す。

やがて長谷川は千葉に財産などない事を知るようになるが、千葉は開き直りとみや子どもに暴力を振るうようになる。
それが原因かは不明だが、子どもはやがて死んでしまう。
いよいよ金に窮した長谷川は、とみを銘酒屋に売ろうか、という話まで考えるようになる。
長谷川一家にとって千葉はどうにもならないお荷物となった。

昭和七年二月十一日。
出かけていた千葉はとみが仏壇に手を合わせている姿に怒鳴り声を上げる。

「そんなまねはやめろ」

そう言って掴みかかろうとする千葉を長谷川はスパナで殴り倒す。
市太郎はバットで。

その後二日かけて遺体をバラバラにし、お歯黒どぶに遺棄する。
海軍将校が犬養首相らを暗殺する五・一五事件が起きる二ヶ月ほど前の事である。

この猟奇事件に東京朝日新聞は「バラバラ事件」と銘打つ。
これがバラバラ事件の第一号とされている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?