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豊川稲荷

8年ほど前、まだ名古屋勤務で岡崎に住んでいたころだ。
公私ともにいい雰囲気じゃない時期が続いたので、豊橋からの帰路に豊川稲荷へ行ってきた。
ちなみに赤坂にある豊川稲荷は、ここの別院である。
まァ、それはそれとして。

下の写真は稲荷の正面にある土産物店である。
僕はこの風景に喫驚したことがある。

アーケードから下がった日除の色を通して差す日の感じも記憶どおりだった

ずいぶん幼い頃の記憶。
多分幼稚園とかの頃だったと思われるが、はっきりと脳裏に焼きついていた記憶に、どこかの神社の参道にある土産物店の様子があった。
時間的にはおそらく午後の陽が傾いてきたような頃。
この写真のように色とりどりの日よけを透かして差し込む光の様子が、記憶の中にはっきりと描かれている。

僕は長い間、それを熱田神宮だと信じ込んでいた。
いかにも観光地っぽい様子だし、身近でそれらしい場所となると熱田神宮くらいしか思い浮かばなかったのだ。
しかし確証などなく、両親に聞いても、確かに熱田神宮へは連れて行ったことはあるが、そんな土産物店があったかどうかまでは覚えていなかった。
たぶん熱田神宮なんだろうけど、おそらくもう店は潰れてしまっているのだろうな。
でも、どうしてこんなに鮮明なんだろう。そして本当にこれは熱田神宮なんだろうか。
そんな感じだった。

数年前、岡崎市に転居してから、ふと豊川稲荷へ行ってみようということになった。
それまでの四十数年間、僕は自発的に来たことはなかったし、誰かに連れられて来た記憶もない。
まるで初めて来た感じだ。
車を停めて、写真の土産物店を通ったとき、長年の疑問が一瞬にして氷解した。
間違いない。ここだ。
僕は鳥肌がたった。
光の具合も店内の棚の様子も記憶のままだ。
不思議な感覚に包まれた。
幼い頃の記憶など、後付けでどうとでも変わってしまう。
それが事実であった確証など、どこにもない。
なのに、そんな記憶が現実であったなどと、どうして一瞬で分かるというのか。
もうこれは自らのシナプスのなせる術だとしか説明のしようがない。
人間の脳の不思議さ、記憶の不思議さ。
そして、そこを偶然に訪れた不思議さに感じ入ったのだ。

僕は、そんな風景を眺めながら、やや泡立った気持ちが鎮まっていくのを感じていた。
これもご利益か。

豊川稲荷は「稲荷神社」でなので「お狐さま」がたくさんいた。
ひと気がなかったので、ちょっと腰が引けた。

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