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熱田宿(2010年)

東海道五十三次41番目の宿場、宮の宿周辺を歩く。

1841(天保12)年に森高雅が描いた「尾張名所図会」に間遠ノ渡リまどおのわたりという場所が出てくる。
絵を見ると常夜灯のあるこの場所そのものであるが、壬申の乱で天武天皇(大海人皇子)が東国に逃げるため伊勢から尾張へと船で渡った時、遠く時間が掛かったので「間遠」と名付たものが伝わったものとされている。

この熱田宿の湊から伊勢の桑名までの七里を船で渡ることから「七里の渡し」「宮の渡し」などとも呼ばれ、東海道としてこの船着場が始まったのは1616(元和2)年とされている。
湊の管理は船奉行を兼ねた熱田奉行が行い、その配下の船番所が厳しく旅人を監視していました。「尾張徇行記」に「船番所ハ御関所同前ナレバ」とあり、厳しい検閲が行われていたことが分かる。
ちなみに文政8年(1825)の船賃は、乗り合い1人の場合68文だったそうで、船旅の所要時間は凡そ4時間だったらしい。

この地が宿場町だった名残が数軒残っている。
1984(昭和59)年に名古屋市有形文化財に指定された丹羽家住宅は、幕末の頃には脇本陣格の「伊勢久」という屋号の旅籠屋となっていた。創建は分かっていないが「尾張名所図会・七里渡船着」にはこの旅籠屋が描かれている。
常夜燈のすぐ近くには、1896(明治29)年に武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭の跡がある。
それほど古い建物ではないが丹羽家とともに宮宿をしのばせる建物として市の有形文化財に指定されている。
しかし料亭だったのは昭和のはじめまでで、戦争中は接収され三菱重工業の社員寮「熱田荘」となった。

「おかめ買う奴ゃ 頭で知れる 油つけずの 二つ折り そいつはどいつだ どどいつどいどい 浮世はサクサク」

文化3(1806)年に遊廓として公許された神戸町ごうどちょう築出町つきだしまち、そして伝馬町てんまちょうの花街があった。
現在の伝馬町から神戸町にかけて籠屋が248軒、飯盛り女も数百人いたそうである。その中で「お亀」というのが、とある鶏飯屋(唐のきびを煮て、その汁を用い、これで飯を炊いて、鶏飯らしく見せかけて売る店)という茶屋では一番人気だったそうで、その「お亀」というのが個人名ではなく、遊女たちの総称となったそうだ。その「お亀」が『熱田神戸節』に登場する。
徳川吉宗に逆らった尾張藩主・徳川宗春が蟄居させられて以降、名古屋城下には公認された遊郭が無かった関係で、名古屋城下からわざわざ熱田まで遊びに出掛けたという

先に書いた都々逸の話の中で、「神戸町のお亀」というのが登場するが丁度この歩道橋に書かれている町名が「神戸町」である。
写真は国道19号線上にある歩道橋から七里の渡し方面を望む。
この斜めに通っている道筋が熱田神宮への道筋ではないかと思われる。おそらく花街もこの筋にあったのではないだろうか。

振り向いて北側を望む。写真右手のこんもりとした森が熱田神宮である。

旧東海道と書かれた看板が左手の街路灯に付けられている。
このあたりが伝馬町で、やはりこの近辺にも花街があったとされている。風俗店があるのは、その名残なのだろうか。

近隣には「ひつまぶし」で有名な蓬莱軒などもあり、歴史を巡る散歩は楽しそうである。さすがに遊郭の名残は見つからないが、往時の賑わいを想像してみるのもいい。


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