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冥途

内田百閒「冥途」を読む。
内田百閒について何事かを書く必要もないほどの小説家である。夏目漱石の門下であった。
冥途は1922年の作だと聞く。内田百閒の第一創作集にある。

夢の話である。
夢と同時にぼくの脳裏を過るのは黒澤明監督による「夢」と云う映画である。
僕は内田百閒の「冥途」を読みながら頭の中ではその映像が繰り返されていた。

内田百閒の作は何れにもいえる事だが、目を惹く様な文章がある訳でもないし、まァ人それぞれではあるが読み易いというのでもない。
只、気持ちの波動がうまく合えば、ジワリと染入る様な、極めて浸透圧の高い文章である。
これは黒沢の「夢」も同様で、映像作品である故に視覚から入る情報は確かに印象深くあるのだが、それを脳内で何度も反芻する内に、場面の一つ一つが自分の記憶のそれぞれに何をかを語り掛けて来る様になっている事に気付く。

高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。

「冥途」の冒頭 内田百閒

映像は文章を緻密に再現するが、内田百閒も精緻で高度な文章をもって、曖昧な映像である夢を再現する。
「梟林記」「山高帽子」「昇天」「青炎抄尽頭子」「件」「蜥蜴」「短夜」「疱瘡神」「波止場」「豹」「遊就館」「映像」「猫」「矮人」「水鳥」「雪」「波頭」「先行者」等の短編があるが、何れも不気味な静寂と奇妙な安堵感(これは作者である一人称が酷く冷静に目前の出来事を捕らえているからであると感じる)に包まれている。
ぼく個人は「山高帽子」が何しろ恐ろしかった。

静謐で美しい、これはまさに黒沢の「夢」で見た、かの美しい狐の嫁入りの様ではないか。

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