見出し画像

今日という日に

 「今も、あのことで恐ろしい夢を見るんです。だから本当は話したくない。でも戦争を知る世代は少なくなっている。平和のために伝えることが役目なら、やった方が良いかなと」
 「山の手空襲」の追悼碑に向かう車中。仲代さんは、今回取材に応じた理由を聞いた「こちら特報部」に、こう説明した。
 「あのこと」が起きたのは1945年5月25日。仲代さんは12歳で、疎開先から渋谷区に戻り、中板橋(板橋区)の中学校に通っていた。南青山の青南国民学校(現青南小)時代の友人の家に遊びに行き、道玄坂の自宅に帰る途中、空襲警報が鳴りだした。午後10時すぎ、青山学院大の近くを通っているときだった。
 何百機というB29が焼夷弾をバラバラと落としていく。無我夢中で逃げている途中、1人でポツンと立っている6歳くらいの少女を見つけた。「こんなとこにいたら危ない」と手を引いたが、すぐにすさまじい音がした。「肩をすくめて振り向くと、少女は私が握っていた手だけになっていた。焼夷弾が直撃したんです」
 あと数十センチずれていれば死んでいた。恐ろしくなった仲代さんは、慌てて少女の手を放り投げて走り続けたという。そこから自宅までの記憶はない。「とにかく必死だった。だから、当時どんな気持ちだったかと問われても答えようがないんです」

◆表参道の石灯籠は遺体の血や体液で黒ずんだ
 表参道交差点に着くと、ケヤキ並木沿いにきらびやかなショップが並ぶ様子を見回した。「こんなふうに変わるとは夢にも思わなかった。残っているのはこれだけか」と石灯籠を見上げる。1920年の明治神宮創建時に造られ、山の手空襲で焼夷弾から逃れようとした人が周りに折り重なり、炎に包まれた。
 遺体から染み出た血や体液で黒ずんだといわれる台座に手を当てた仲代さん。観光客や若者の人波が絶えない街で、「焼け野原だったことしか覚えていない」とつぶやいた。空襲の翌日、前日まであった建物や住宅ががれきの山になり、あちらこちらで火柱が出ていたという。

えにしという言葉がある。
先ほどロバート・キャパの命日ということで記事を上げた。
ちょうど明日に八王子でやっている写真展に行こうとしていて、たまたま過去の自分のブログから今日が命日だというのを知ったのである。
これもひとつの縁であろう。
それで5月25日という日を見ていると「山の手空襲」というのに行き当たる。
東京の空襲というと3月の東京東部を中心にした「東京大空襲」を思い浮かべるが、その2か月あとにも、今度は渋谷、新宿を中心にした一帯に2日間で6903トンもの焼夷弾を投下し4000人以上が亡くなっている。
上記の太字は、当時中学生だった俳優の仲代達也さんの回想である。

表参道にある石灯籠の話は以前にも聞いたことがあった。
焼夷弾による火の海から逃れようと、人々はコンクリート製で比較的安全に思えた安田銀行(現みずほ銀行)へ逃げ込もうとするも扉を開けることができず、周辺で折り重なるように亡くなっていた、というものだ。

キャパにも、この山の手空襲もキーワードは「戦争」である。
奇しくも両者を通して、改めて戦争というものを考える日になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?