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「とーりかーじ、いっぱーい」

東郷平八郎は午前六時二一分に、「敵艦見ゆとの警報に接し、吾艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす。此の日、天気晴朗なれど波高し」と大本営に打電している。
両艦隊は急速に接近し、距離八〇〇〇㍍にまでなったとき、東郷は左に舵を切ることを命じ、丁字型に敵の先頭を圧迫しようとした。
軍艦は、その構造上、敵は正面にいるよりも左右どちらかにいた方が目標に対して攻撃できる大砲の数が多くなる。その反面、回転運動中は自軍からの攻撃は難しく逆に敵艦の正面の大砲の射程圏にとどまることになる。しかし回転運動中の日本海軍の位置は、敵艦の射程圏のギリギリのところであり、当然命中精度は低い。

この時、作戦担当参謀であった秋山真之は、自著の『軍談』にこう書いている。
「敵の艦隊が、初めて火蓋を切って砲撃したのが、午後二時八分で、我が第一戦隊が、暫くこれに耐えて、応戦したのが三四分遅れて二時十一分頃であったと記憶している。この三四分に飛んできた敵弾の数は、少なくとも三百発以上で、それが皆我が先頭の旗艦『三笠』に集中されたから、『三笠』は未だ一弾をも打ち出さぬうちに、多少の損害も死傷もあったのだが、幸いに距離が遠かったため、大怪我はなかったのである。…午後二時十二分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾…、午後二時四拾五分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分かれた時の対勢である。その間実に三十五分で正味のところは三十分にすぎない。…勢力はほぼ対等であったが、ただやや我が軍の戦術と砲術が優れておったために、この決勝を贏 ( か ) ち得たので、皇国の興廃は、実にこの三十分間の決戦によって定まったのである。」
海戦はこの日の夜まで続いたのだが、この戦いでバルチック艦隊を構成していた八隻の戦艦のうち六隻が沈没し二隻が捕獲された。装甲巡洋艦五隻が沈み一隻が自沈、巡洋艦アルマーズがウラジオストックに、海防艦三隻がマニラに逃げ、駆逐艦は九隻中の五隻が撃沈され、二隻がウラジオストックに逃げた。ロシア側の人的被害は戦死五〇四六名、負傷八〇九名、捕虜六一〇六名。
一方日本側の損害は、水雷艇三隻、戦死者一一六名、負傷五三八名であった。(平間洋一『日露戦争』が変えた世界史』による)
結果は日本軍の圧勝であり、日本軍のこの勝利で日露戦争の趨勢は決定的となったのである。

この歴史的な出来事が五月二十七日、二十八日だったことを記憶している人も少ないかも知れない。
これは戦争の賛否と言うよりも、ついその四十年くらい前までは旧態依然とした前時代的な国家であった東洋の島国が、いかに同盟国の援助があったにせよ、誰もが手を焼いていた強国ロシアに鉄槌を食らわせたという痛快さがあるのは否定できない。
今から百十九年前の話である。


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