見出し画像

「来たるべき言葉」

写真と文章というのは、実は相容れない世界のものではないだろうか。
写真が、この世界を表す模写であるとするなら、文章とは、その世界を生み出す実質ではないかと思うのだ。
写真にはしばしばキャプションやタイトルといった短い文章が添えられることが多い。
作者は何を思い、何を表現するために、その一葉を撮ったか。
この写真はこう見ろと言わんばかりの美辞麗句を並べ、果はどんなカメラで、どんな絞り値で、どんなシャッタースピードでなどといった、写真を見る側にしたら「どうでもいい」ことまで。
実に様々な言葉で、文章で一葉の写真を取り囲んでいる。
もしそれらが如何ともし難く、その一葉の写真に必要であるとするなら、写真とは何と脆弱な足場にいるものかと思う。
写真が写真足り得る写真であるのに、その写真は写真だけは成立しないというのだ。

文章、あるいは言葉というのは強烈な意思を持っている。
真っ白な紙に「黒」という言葉が添えられていたとしよう。
その真っ白は紙は見る人にとって「ただの白い紙」ではなくなってしまう。
種も仕掛けもなく、それは唯一切れの紙であるに違いないのに、「黒」と添えられたがために、見る人の意思は訳もなくねじ曲げられていく。
(これを「黒」と称した人の思いとは何か)(白をあえて黒という表現は、もしかして新しい芸術の在り方なのか)
とどの詰まり、これを「分かったふり」をしないと馬鹿にされるのではないか。

写真とは「ただの白い紙切れ」ではない。
世界を圧縮した正確な模写である。
そこに写っているものが全てで、それ以上でもそれ以下でもない。
逆にそれ以上でもそれ以下でもいけない。
この唯物論的なロジックは、実は文章と写真との相関を端的に現すのではないか。

事象を中心に時間軸を考える場合、写真とは正にその瞬間であり、文章とはそれ以前かそれ以降に展開する世界を持つのだ。
写真が文章の領域を補完しようとすれば、写真は自ずと崩壊し始め、写真である必要な全くなくなる。
動画である。
動画には文章が要らない。
一切の説明を省いた、独特の位相を持つのが動画なのだ。

文章を補完する写真は除外する。
本来、写真とはそういう物であったため、文書を補完する意味合いで撮られた写真は確固たる存在理由がある。挿絵である。
逆に写真を補完する文書を考える場合、その写真の持つ客観性は書かれる文章に担保されるのだ。

このようなことから写真に付与される文章や言葉は、どんな内容であれ、その写真の脆弱さを強調するものになることを、ある程度は覚悟しなくてはならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?