例えば君と17年後に再会したとしても
背が高いのに少し猫背でこわもて。大阪で育った私が聞いても、きつい口調の関西弁。
けれどそれでいて紡ぐ言葉は繊細で優しかった。
そんな古典の先生が、卒業間近に配布したプリントに記していた言葉。
どこか心を刺激するこの言葉は、映画や小説からとった既成の言葉ではなさそうだった。
手が届きそうで届かない、理解できそうでできない、18歳の私にはなんだか切なく聞こえた。
時々、思いがけず、
ずっと知恵の輪をガチャガチャするように、自分の中で絡まっていたことが、急にストンと腑に落ちたりすることがある。
元々フットワークは軽い方だったと思うけど、今年に入ってより一層その性格が加速した。
不安をかき消してワクワクを優先し、やりたいことや行きたい場所に臆せず飛び込む。
会いたい人にも
会いたいときに
会いに行く。
そうすると、いつからか「別れ」がさみしいものだと、あんまり感じなくなった。
もしかしたら会えるのは今日が最後かもしれない。
そんな可能性もあるけどさ。
なんかそれよりも、相手を信じてるからこそ、きっとまたすぐ会えると思って、会ってる時間が会えない時間をより愛おしいものにさせてく、そんな感覚。
旅をして、会いたいと思える人たちと過ごした時間で
ふいにストンと腑に落ちた。
17年後の再会も「じゃあ、また」かもしれない。
そっけないんじゃない。
別れを惜しんでいないんじゃない。
また会えると当然に思っていないと言えないんだ。
先生。
はたちもとっくに超えちゃって、制服なんて着れないけれど、私の解答用紙をここで提出します。
じゃあ、また。
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