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人は自然の一部か、それとも

先日、高尾山の「階段」について書いたけれども(https://note.com/atelierkoshiki/n/n918e799e882d)、もう一つ思うことがあった。
2年前に大山を登った時、敷き詰められた、または敷き詰められそこなった無数の石の上を歩いた。
誰がしたのかと言えば、勿論、名も無い先人たちである。
まさか自分が登るために石段を組む者はいない。
これからも永遠にその後に続くであろう次の人のために、道を整えていったのだ。
その大変な労力を思い、感銘を受けた。

そもそもその前提として、そこを人が歩いていたという事実がある。
信仰や通商や行楽や労役のために人々が歩く内に自然と道が出来、「歩くからには」ということで便宜が図られるようになる。
こういうことは自然発生的に起きたことで、「さあ新規に道を作りましたからご利用下さい」という話ではない。

道に便宜を図ってくれているのは、人だけではなく、木々もきっとそうだ。
人々が歩きやすいように、階段状に根を張ってくれているように私には思えてならない。
あまりにも上手く良く出来ているから。
これを歩きにくいと言えば確かに歩きにくいかもしれないけれど、歩きにくい山道を、先人や木々が可能な限り歩きやすくしてくれている、と私には思える。
そういう所に、簡単なこしらえの板を張り渡して階段にしてしまうのは、時の営みに対する冒涜のように思え、残念に感じられた。

人間が〈自然の一部〉か〈自然に対する/反する者〉かどうかは、意見の分かれる所だが、長い時間の中で人間が成し遂げていったことは、ゆっくりと木の根が広がり自然の階段が出来ていったのと同じように、れっきとした自然の営みの一部だと私は思う。
山道を歩きながら、この「階段」の下に覆い隠されてしまった木々の根や土は、踏まれたいだろうに、と私は思った。
それがずっと、彼らの自然な在り方だったのだから。

「自然を大切に」というのは、こういう所にも及ぶ感性であるべきではないだろうか。
物事はやっぱり、急に変えてはいけないね。

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