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一つの約束

中学の時、図書館だったか家だったか、ふと目に入った短い文章。
頭の中でどうかするとモヤモヤと思い出すのだが太宰治が書いたという他は小説なのか、なんなのかさえも分からなかった。
ひょんなことから、それは「一つの約束」という作品だったとようやくこの頃知った。
声に出して読んでみると3分ほどかかるが黙読だと1分あれば読めるのでぜひ目を通して貰いたい。


太宰治


一つの約束


 難破して、わが身は怒濤に巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、必死にしがみついた所は、燈台の窓縁である。やれ、嬉しや、たすけを求めて叫ぼうとして、窓の内を見ると、今しも燈台守の夫婦とその幼き女児とが、つつましくも仕合せな夕食の最中である。ああ、いけねえ、と思った。おれの凄惨な一声で、この団欒が滅茶々々になるのだ、と思ったら喉まで出かかった「助けて!」の声がほんの一瞬戸惑った。ほんの一瞬である。たちまち、ざぶりと大波が押し寄せ、その内気な遭難者のからだを一呑みにして、沖遠く拉し去った。
 もはや、たすかる道理は無い。
 この遭難者の美しい行為を、一体、誰が見ていたのだろう。誰も見てやしない。燈台守は何も知らずに一家団欒の食事を続けていたに違いないし、遭難者は怒濤にもまれて(或いは吹雪の夜であったかも知れぬ)ひとりで死んでいったのだ。月も星も、それを見ていなかった。しかも、その美しい行為は厳然たる事実として、語られている。
 言いかえれば、これは作者の一夜の幻想に端を発しているのである。
 けれども、その美談は決して嘘ではない。たしかに、そのような事実が、この世に在ったのである。
 ここに作者の幻想の不思議が存在する。事実は、小説よりも奇なり、と言う。しかし誰も見ていない事実だって世の中には、あるのだ。そうして、そのような事実にこそ、高貴な宝玉が光っている場合が多いのだ、それをこそ書きたいというのが、作者の生甲斐になっている。
 第一線に於いて、戦って居られる諸君。意を安んじ給え。誰にも知られぬ或る日、或る一隅に於ける諸君の美しい行為は、かならず一群の作者たちに依って、あやまたず、のこりくまなく、子々孫々に語り伝えられるであろう。日本の文学の歴史は、三千年来それを行い、今後もまた、変る事なく、その伝統を継承する。

なぜ、40年も記憶の中でモヤモヤしていたのか

ひとこと「助けてくれ」と叫べば良かったのではないのか…
灯台守り一家も二、三日もすれば何もなかったかのように、いつもの暮らしが戻ってきたと思った。
それに創造主から授かった命を大切にする選択肢はなかったのか。
そもそも10代の頃の私は「人間失格」を読んで以来、太宰の人間性を受け入れられなかった。

しかし、還暦を迎えてこの作品に再会したのもなにかの因果か、感じ方がすっかり変わっていた。


太宰と神のみが知る事実といえなくはないだろうか。
「蜘蛛の糸」のお釈迦様にも通じる気もする。
灯台守りの家族団欒を一瞬たりとも壊したくないという戸惑い。
誰も見ていなくとも、神は全てをご存じである。
そう考えると、これは昔の日本人が好きだった美徳であり、美談なのかもしれない。



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