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講師としては「なんか先に来て釣りをしてた近所のおっさん」が理想/本田先生の部屋 vol.1

絵画教室 アトリエ5の小学生/中高生/大人クラス担当・本田雄揮先生による連載。vol.1では「教えること」についてのコラムです。正解がなく、答えも一つじゃない表現の世界で、教えるとは一体どんな営みなのかを考えます。

〔BGM〕

※この連載はBGM付きです。いつもより小さめの音で流しながら読んだり、読んだ後の考えごとのお供にどうぞ。

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講師として生徒の前に立つ時、いつも「何を教えるのか」について頭を悩ませます。「教える」という言葉は私にとって強すぎる意味をもつものですが、生徒にとっては間違いなく私は「教える人」なのですから仕様が無い、毎回腹を括って臨んでいます。

はてさてどうしようか、何を「教え」ようか。これについてはクラスや制作内容で変わることなので中々難しい。当たり前ですがこどもとおとな、デッサンと油絵、描き始めと仕上げで同じではない訳です。しかし、私の中ではポリシー(という程でもないですが)一貫して意識していることはあります。それは「糧になること」。

よく教育現場で耳にする故事で「魚を与えるのではなく、魚の釣る方法を教えよ」というものがあります。意味としては、その場限りではなく生涯を渡って役に立つものを与えんとする、というものですね。なるほど、その人の中に「答え」ではなく、それを導く「方法」と「過程」を残すことが大切という訳です。

しかしながら実際の現場に立ち会うとそればかりではいられないことも生じてきます。皆が初めから一同に釣る方法を求めている、ということでもないのですね。別に魚が食べたくない子もいるのです。例えば絵の具での混ぜ色(混色)による色づくりを紹介したとしても、原色が好きな子は原色を使いたい。その場合、その生徒にとってこの教えは興味を持てず経験として残らない。言うなれば「糧」にならない。ではどうするのか。

①「魅力」と「目的」を知ること


私の場合まず初めにその教えの「魅力」と「目的」を提示します。別の言い方ですと「きっかけ」ですね。先ほどの例ですと、混ぜ色によって生まれる色の美しさを見せる。「原色もいいけどこれもなかなかイイじゃん」と思ってもらう。そしてなぜそれを行うのかを考えさせる。制作によって異なりますが例えば他に描くものとのバランスであったり、実際に描くものの色に近づけるためだったり、時には「その方がカッコいいから」というもの(ちょっと強引ですが正直これが一番理解されます)です。

魚の釣る方法の前に私が釣ってみせ、「釣り、楽しい!」と言い、必要であれば魚を食べ「魚、美味しい!」と言い、最後に「お腹、いっぱい!」と言う。満足げな私の表情、そこに興味を抱く。そこでやっと「釣る方法」を伝えていくのです。過剰なようですが、実際には「これをやりましょう」とは言っていません。あくまで生徒が能動的姿勢になるように仕向けているだけです。その姿勢あって初めて「糧」となるのです。

②「理由」を知ること

さて、ようやっと釣る方法を教えて一安心…ではないですね。その釣る方法において何を教えればよいか。さらに釣る方法を教えたとしても問題が起こります。まずどうしても釣れない。次に釣る方法が合わない。当たり前です。竿を垂らした全員が入食いなんてありません。どこの釣り堀ですかそこは。

これも私の場合、まずは焦ることなく見守ります。これは本人が問題を問題として意識していないことが多くあるからです。問題が「結果」として表れ、その生徒の心理状態が「なんかちょっと違うかも…」に至るまで背中をジッと見続けます。これは結構難しい。すぐに手を差し伸べたい気持ちをグッと我慢します。なかなかつらいですが、慣れてくるとニヤニヤが止まらなくなります。「あ、うまくいってない。フフフ…」と。意地悪ですね。でも元来の私の性悪な性格はさておき、それだけではない理由があります。

それは「原因」をより深く理解できるチャンスだからです。例えば絵の具において混ぜ色で思った色ができないという「結果」に対して「原因」は大体決まっています。絵の具の量や数の出し過ぎ、不適切な水分量、筆の洗い方が不十分などですね。そのどれなのかを考えるように促し、時には提示します。なるほど、となります。問題意識が生じているからです。すると「結果」を言及せずとも、できるようになってくるのです。「絵の具出し過ぎたからこうなったのかー。じゃあ次は少なめに…」と。要は「理由」を知るのですね。そこの理解は本当に重要です。「理由」を知っていれば、早い話問題は解決できるのですから。自らで問題に気づき、解決まで導く力。これこそが私の考える「釣る方法」であり、これもまた「糧」なのです。

③「工夫」を知ること

ただ、人間不思議なもので「できる」ようになると段々それが物足りなくなってくるものですね。なんの苦なしに魚を釣ることができてしまうのです。それで良い場合ももちろんありますが、絵画教室という少人数で行い、学校よりも専門性を必要とする場においては、皆が全く同じように釣り竿を垂らし、同様の魚を同じ量だけ釣っている姿は好ましくありません。私としてもそんな後ろ姿を眺めているだけではつまらないのです。

ですので「理由」を知りそれが充分に馴染んだ生徒に関しては「工夫」を提示します。より大きな魚を釣る為に異なる釣る方法を工夫できること、さらに魚を獲るのに釣るという方法だけではないことを見せ、考えさせるのです。網を投げてもよいし砂浜を掘ってもよい、銛をもって泳いでも構わない。よりよい方法を模索し自作してみる。まあその時々で最低限ルールはありますが。「こうしたらこうなる」が分かっているのであれば「こうしたらどうなる?」までの導きは比較的スムーズです。そうなってくると同じ「魚を獲る」という目的でも全員が異なる方法を選んでいる、選ぶことができる場となります。

これは見ていて楽しい。「こんな方法考えて、こんな魚釣れたけど!」と報告に来たり、結局その方法ではボウズでも達成感に満ち清々しく笑っていたり、さらに次の方法を編み出しワクワクしていたり。こうなってくると、私の立場としては「釣りを教える指導員的な人」ではなく「なんか先に来て釣りをしていた近所のおっさん」となります。理想。絵画においては同じモチーフを描いていても全く異なる解釈の完成へと至る訳です。様々な選択肢があることを踏まえ、自ら未知なるものに手を伸ばす気持ち。「糧」のひとつの到達点です。

絵を描くの「先」をみてみたい

ここまで最初に紹介した故事「魚を与えるのではなく、魚の釣る方法を教えよ」を例に私の密かなるモットー「糧になること」を書き連ねてきました。ざっくりまとめると

・生徒が能動的姿勢を持つこと
・生徒が問題に気づき解決を探ること
・生徒が選択肢を見極め未知に進むこと

といった感じです。これが私の考える「教えること」です。とはいえ現場では例外の方が多いくらいですが。それはまたの機会にして。

平たく言って絵を描くの「先」にあることをみたい、という気持ちです。実際、生涯に渡り絵だけを描いて生きていくという選択は、現代日本では現実的ではありません。成長の中で多様な選択肢が生まれ、絵を描く以外の道を歩んでいく生徒がほとんどでしょう。ですがそれは別に悲しいことではありません。「絵を描くこと」をしないとしても「糧」は無くなることはないのですからね。✍️

Text and Image = 本田雄揮(アトリエ5)
Direction = 遊と暇
・Edit = Tatsuhiko Watanabe
・Sound select = Keiko.mei.Fukushima

Website http://atelier-5.com/

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