あげたのにもらったみたい手袋にはしゃいだ指は鳩へきつねへ(岡本真帆)

あげたのにもらったみたい手袋にはしゃいだ指は鳩へきつねへ
岡本真帆『あかるい花束』(ナナロク社、2024年)

 短歌を読むとき、そこにはふたつの速度がある。ひとつは読む速度で、もうひとつは理解する速度だ。つまり、目で追った文字が脳に入力される速度と、その文字の意味するところが理解され、脳のなかに立ち上がる速度。大なり小なり短歌は「圧縮と解凍」の詩形だから、このふたつの速度はしばしば乖離する。すなわち、理解する速度が読む速度にすこし、あるいはかなり遅れる。たとえば穂村弘の〈赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書〉のような歌が乖離の大きい例だとすれば、枡野浩一の〈毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである〉は乖離の少ない歌の例として挙げられるだろう。

 岡本真帆の短歌が持つ特徴のひとつは、このふたつの速度のたくみなコントロールにある。そして、〈あげたのにもらったみたい手袋にはしゃいだ指は鳩へきつねへ〉は岡本真帆の短歌のなかでも特に、このコントロールが緻密に行われている名歌だと思う。

 初句・第二句は事実の説明ではなくて感動の記述であり、「つぶやき・実景」メソッドで言うところの「つぶやき」にあたる。にもかかわらず、「プレゼントの話をしているのだろう」という予感はこの時点で芽生えている。それは〈あげたのにもらったみたい〉というフレーズによい意味で既視感があって、高い共感性を有していることによるだろう。そして第三句でその予感は確信に変わる。このひとは手袋をプレゼントしたのだ。手袋というチョイスから、確定的ではなくても、冬、ホリデーシーズン、雪、といった情景がうっすら浮かんで、どことなく幸福な気分が喚起される。ここまでは、読みの速度と理解の速度はほぼ同じだ。「読めばわかる」ことは言葉がもつ原初の快感で、読者はこの歌に好印象を抱くとともに、すこし油断している。

 第四句・結句で、読みと理解の速度は一瞬乖離する。まず〈はしゃいだ指は〉という擬人法を把握するために、次いで述語の省略された〈鳩へきつねへ〉が手で鳩やきつねの形を影絵のように作っていることの表現なのだと理解するために、読者はすこしだけ間を要する。この一瞬の理解の遅れは、急に振り切られたことへの驚きと、理解に至るまでの思考の勢いと、理解できたことの喜びを引き連れて、書かれている情景への没入感を高める。手を鳩にしたりきつねにしたりして喜んでくれたひとを、うれしそうに眺めるこのひとの気持ちを、なにかライブ感のようなものをもって読者は共有することになる。そんなによろこぶ? と、他人事ながら思わず言ってしまうような。

 この、第四句・結句の負荷が強すぎないところ、飛躍が大きすぎないところに岡本真帆の歌のよさがあると思う。第四句・結句には負荷があるが、ゆっくり考えれば景は取りやすく、この歌が持つ気分に至るのはそこまで難しくない。飛躍が大きくてすぐに意味の取れない歌はたしかに強いエネルギーを持つけれど(私自身も作者としてそういう歌をしばしば作るけれど)、その過剰さは消費的な快楽と切っても切れないところがある。この歌の感じのよさは、過剰さによって詩を生み出そうとするのとは反対の姿勢で、ただその情景にもともと備わっているときめきを読者の脳内に再現させるために修辞が機能していることに依拠しているのだと思う。

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