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血が通わない好奇心

私はたまに、興味はあってそこに知りたいという熱もあるんだけど、どこか矛盾して冷めたような気持ちを感じることがあった。なんでかなと思ってたけど、特に掘ることもしなかった。あえて意識的にしてなかったのかもと、今思えばだが感じる。

キッカケは自分の好きは何かを書く機会があって、その日の環境(これはまた別で書きたい)も相まってふと気付いてしまったのだ。だからまとめたくなった。
私の書いた好きの一つは「相手がなぜその言動や行動になるのかを考え分析すること」。結論から言うと、ここから見えたものは孤独だった。

たぶん私は小さい頃から「普通(みんなと一緒)」に馴染めず、秋田という田舎での小さい社会での違和感に、どこか周りを信頼できずにいた。
そしてどこか、自分は皆んなにわかってもらわなくても誰かがわかってくれればそれでいいと、万人受けを嫌って生きてきた気がする。
どこか周りに合わせることを小馬鹿にしていたのだろうと今は思う。
秋田にいる頃は家族が、いや姉ちゃんが、私をずっと全力で受け入れてくれていたから。色んな事があっても、あまり他の人のことは気にならなかった。小中高と良い感じのイジメと言われるようなこともあったけど、姉ちゃんと乗り切った。

そして今までも、運良くわかってくれる人が近くに1人は必ずいたからここまでこれた。だから気付かなかった、というかそれに甘えて気付こうとしなかったのだ。
そして気付いた、その矛盾して冷めたような気持ちをなぜ感じていたかを。

それは、わかる人にわかってもらえていたらいいと思うのと同時に、自分が大切だと思う人以外のことなんてわからなくていい、そう考えていたからだ。
つまり「相手が私に何を伝えたいと思っているのか」は差し置いて、
なぜそんなこと言うのさなぜそんなことするのさと面白がっていたのだ。
自分本意で受け止めた言葉半分で、その人を分析し始める…なんて愛がないなんの温かみも繋がりも生まれないことをしてきたのだ。

愛がある人に対してはそれができて、そうじゃないもしくはまだない人に対してはできないなんて悲しい。でもそれを選択して、自分が望んだ孤独の中で生きていたのだ。気付いてしまったから、変わっていくけれどつい最近までこんな感じだったと思うとゾッとする。ゾッとできるようになってよかったといった方があってるかも(笑)。

これが紐解いてみえた、血が通わない好奇心の正体だった。