資源倫理(未完)

◆悪の生起

 世の中には、他人をリソースを食い潰したり、攻撃して楽しんだりする悪人が一定数居る。SNSのエコーチェンバーは、そうした悪を見つけ排斥する。その両者にとって、他者を叩くことを楽しんでいるという点で共通している。中世ヨーロッパでの公開処刑は娯楽であり、人間の本性の一部には、他者を攻撃することで自己満足感を得るという仕組みが生得的に備わっている。子どもは倫理的な教育をしない場合、虫などに残酷なことをする。逆に、倫理的な後ろ盾がある場合、他者の攻撃は激しさを増す。それは「正義」であり、正当化された悪は狂気であり凶器となる。

 攻撃を正当化する場合、「攻撃対象」を「悪」と見定める必要がある。その対象は実体がなくともよく、陰謀論が想定するような「空の第三者」(「大文字の他者」ラカン:?年)でもよい。攻撃のコミュニケーションが成立するためには、注意が向きやすい対象を想定する必要がある。そして、攻撃によって逆に「正義」自体が正当化され強固になるという構造にもなっている。同一の対象を皆で攻撃することが、集団の文脈として理解される。目的によって繋がれた絆は強い。

 正当化が必要なのは、行動に後ろめたさや迷いがあるからである。他者を攻撃するという娯楽は、危険やリスクを含んだ悪い遊びである。仮に自分が攻撃される側になる恐怖も存在するわけで、その最悪の事態になることを避けるために、攻撃する側に回るといったことが起こる。攻撃は他者の生存を脅かすと共に、自己のリソースを安全に保つ防衛手段でもある。最低限身の安全が保証され、他者を痛めつけることを上回る娯楽が他にあるならば、多くの人は悪には走らない。

 実際の社会は、悪にならないだけのメリットを与えるのではなく、悪さをした者に罰を与えるという仕組みになっている。これは、リソース配分に限りがあるためである。悪人により報酬を与えれば、善人が相対的に不利益を被るのであり、善悪の交代が繰り返される。将来的な罰を計算できる者が法治国家に適合する。



◆悪の主体

 法律が言及する責任の主体は個人なので、集団を罰することができず、主犯格に罪を帰属させる。しかし悪はそんな単純な事象ではない。悪は個人に結びつけられるケースの方が少なく、実態は、身体なき者が主体である。言い換えれば、悪は「活動体」であり、「思想」であり、「理念」である。それは同時に、善も担う。善悪はそれらの行為の結果である。

 何らかの行為が悪となるのは、他者の生存やリソースを脅かすことによる。弱肉強食は善悪もないと言えそうだが、被害者からすれば加害者は悪である。立場は文脈による。人間社会においての弱肉強食は自然界とは異なるにせよ、虐げる者は悪である。ただし、虐げられる者は善でもない。虐げられる側は、状況さえ揃えば虐げる者となる。食物連鎖とはそういうものである。喰らう者は喰らうだけの理由を、喰らわれる者は自分を守るための正当化を必要とする。弱肉強食は悪の連鎖であり、もしそれを覆すような優しさがあるとすれば、それは善である。



◆善の生起

 生命が維持されるためには、リソースを取り込む必要がある。その自然の摂理を悪と呼ぶ者はいないだろう。しかし、リソースは無限ではなく、他者から奪わなければならないのだとすれば、生きるということは本性上、悪を含んでいる。その摂理に抗おうとする意思が芽生えれば、それは善く生きようとする覚悟となる。善は利己性に逆行する。善は悪の否定であるが、それは構造上、自己正当化の破棄であり、自己否定の先にしかない。つまり正義の執行は善ではなく悪である。

 善行は利他主義と接続するため、長期的に利点がある。ただそれは善の結果であり、目的ではない。今生命の危機があり、他者から奪わなければ長期的な利点も得られないならば、人は悪に染まる。普段は制度に守られて仲良くしていても、地震などで社会生活が機能しなくなった場合、人は他者から何かを奪ってでも生きようとする。善は極限状態で、自らの生存を否定することである。自分の命を省みず、他者を生かそうとする意思を善と呼ばずに何と呼ぶか。

 ただし一点、表面上の言葉だけなぞれば自殺が善いことになるように思われるが、それは社会に属する者においては他者の時間的リソースを食い潰す行為となる。生産活動につかず、死体を他人に処理させなければ悪ではない。しかし善でもない。行為の主体である活動体が無くなるのだから、無属性である。悪はリソースを食い潰すため尾を引くが、善は行為を続けない限り存在しない。それらの証明は語り継がれることによって残る。悪行や善行が今為されていることと、そのとき為されていたことは別のことである。



◆資源倫理

 悪についてまとめれば、前提1:主体は活動体であり、前提2:行為の結果であり、十分条件:その行為は他者の生存やリソースを食い潰すものである。善は悪と前提を同じくしながら、必要条件:自己の否定と十分条件:他者貢献とする。仮に自己否定と他者搾取が同時に為される場合は悪である。そして、他者貢献と他者搾取が同時に行われる場合は、他者の対象が行為によって分かれるため、その行為を正当化する必要が生じ、善とはならず悪のみ満たす。

 上記定義の強度を高くとれば、この世の中の行為はほぼ悪であり、善行がほとんど存在しないことになる。ただ一つ視点を加えるなら、そもそも善悪を切り分けることは重要ではない。ある行為が善なのか悪なのかを切り分けることは、実態社会に影響がないのである。実際の社会で行われる行為を切り分けるのは、「合法/違法」というバイナリーコードである。既存の法をアップデートしたり、個人の思想を塗り替えない限り、倫理的な定義は意味がない。

 むしろ倫理の課題は、実生活へどのように組み込むかという問題だと筆者は考える。倫理は基礎付けよりも、実践されるためのプログラムが必要なのである。それに倫理は絶対的である必要もなく、段階的なレベルの導入がなされたほうがより現実的である。つまり、絶対的な倫理観からのトップダウンではなく、ボトムアップ的な倫理そのものの組み換えが倫理として許容される建て付けである。

 その倫理は悪を許容する。その倫理は倫理自らが善となるために努力されるものである。倫理という活動体ないし思想は、自らを否定し、善へと止揚(「アウフヘーベン」ヘーゲル:1807年)する。悪は動物的な自然の摂理なのだから、その否定は他者と折り合いを付ける人間の文化的な活動によって実現されるのであり、善く生きようとする精神によって善は実体化する。

 筆者はこうしたプログラムを「資源倫理」と呼ぼうと思う。限りあるリソースの奪い合いに争いが起き、その調停と予防に倫理が求められるのだから、倫理の主題となる対象は資源である。逆に言えば、資源が無限にあるとするなら、倫理の問題は起きない。ビジネスが倫理的であるためには、結果としてリソースが増えるような結果が望ましい。現実問題、土地というリソースは滅多に増えないが、金融リソースは頻繁に増えている。このリソースの増加が①個人の選択肢の増加と②幸福の質の上昇をもたらす組み立てが要る。



◆機能化された経済人

 経済活動と人間の行動は共依存的である。マスメディアやSNSの場は、収益を上げるために人々が気を引くコンテンツを作り出す。それは消費者にとっても望むところであり、自分好みの情報が予め用意された上で与えられるなら満足である。それは「経済による人間の家畜化」であり、「人間の経済環境への過適用」である。この共生関係に何の問題があるのか。

(以降は思いついたら記載)

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