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23.03.01 斟酌と首絞め

裏路地の路地、みたいな
細い入り口の階段を登ると覗き窓のついたドアがある。

一足踏み入れたそこは、箱庭だった。

テーブルの上の飾り棚に、つげ義春の短編集が置かれていた。

僕が以前読んだものと少し収録内容が異なっていて、読んだことのないものともう一度読みたいものとを行ったり来たりパラパラしていた。

最後の後書きに、
「つげ義春の作品を読んで、何人の人間が自分は大したやつではないことを突きつけられただろうか」という、なんとも後書きらしいことが書かれていた。

その先の、
「普通はそれが始まりになるような或いは終わりになるような言葉を使わずして、物語の行末のみで全てを物語る」
という言葉がどうも気になってしまって、
特に取り上げられていた短編を読み返した。

(後書きをわざわざ「」までつけて引用のようにしているけれど、これはあくまで僕の粗い要約でしかないのです。)

読んだことがあると思って飛ばしていたが、
家に帰って以前読んだ文庫を確認してみたら収録されていないものだった。

読んだことがあるような気がしたのは、
ずっと昔に、それか何か別の物語か、または誰かとの会話で聞いたことがあったような情景だったからだろう。


「言わなくてもわかってる」そんな話だった。 


いつの日か僕は、言葉にしないと伝わるわけがないと思うようになっていた。
だからといって言葉にしないこともあった。それは、言葉にしても伝わらないだろうという気分が邪魔をするからだ。

絶望感というよりは諦念というのが近い気がする。
悲しい気持ちではない。
僕も向き合った相手のことが言葉無くしてわかるとは言い切れないから、相手も同じだろうというそれだけだ。


バスタブで向き合っても、あの人は僕の傷が見えない。僕の長い髪が隠すから当然だろうと。
そういうことだ。

けれど、あの物語を読んでいると左目が滲む。
さっき俯いて吸っていたタバコの煙が目にあたっていたからだろうか。

悲しい気持ちではなかった僕の単純すぎる理論にヒビがはいってくる。

物語の中では、見えないもの言葉にしないものがちゃんと伝わっているのだ。

あの僕の既視感だって、既視感なのだから、そういうことが現実世界であったことを証明しちゃっている。



あの人は首を絞めるのが誰よりもうまかった。
変に器用でそういう加減ができても、人の心を推し量ることはできない。そういうことだ。


また単純すぎる理論を積み立ててこんな時間になっている。





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