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過去の話

許されたい、と思ってずっと生きている。

小学6年生の春、初めて男とセックスした
相手は出会い系で知り合った男だった。
目的はセックスではなくただ会おうと言われた。

今思えば出会い系でセックス目的ではないというのはおかしすぎる。だが、その頃の私は小学生だったということもあり、男の言うことを疑わなかった。男はかっこよかったわけでも優しかったわけでもない。後から分かったことだが、高校退学、余罪持ち、ニートだったらしい。そんなろくでもない人間に犯された自分は、ひどく穢れた存在であると思うようになった。

男のことが嫌いだったか?と聞かれると嫌いだったとは言い切れない。もちろん好きだったわけでもない。寂しさを埋めてくれる存在としか思っていなかった。かわいいね、よくがんばってるね、えらいねと男は常に言ってくれた。親に褒められた経験が少なかったため、奴の言葉がとてつもなく嬉しかった。

会おうと言われたとき、正直怖かった。
断った。奴は冷たくなった。
怖くなってやっぱり会いたいと返した。
奴は、いつも通り優しくなった。
きっとこの恐怖は男のことが怖かったからではない。私を褒めてくれる人がいなくなるかもしれないという恐怖だったのだと思う。

セックスをしてから1週間後、吐き気や頭痛が止まらなくなった。不安になった。妊娠したかもしれない、どうしよう、死のうかな?とずっと考えていた。様子があまりにもおかしかったため母親にバレた。警察に行くことになった。

担当になった女性巡査は優しかった。取調べ中に泣き出したり実況見分で気絶したりと迷惑しかかけていないのに巡査はいつもあなたは悪くないよと言ってくれた。本心ではどう思っていたか分からないが、私はその言葉に救われていた。しかし、母親は違った。こういうことが起きた時は必ず親が味方になってくれるものだと思っていたが、私の想像は甘かった。

警察に初めて行った日の夜、母親にあなたと家族をやめたいと言われた。

どうしてついていったの?どうして会ったの?寂しいから?ふざけんじゃないわよ、甘えないで。会ったって怖かったら逃げるはずでしょ。あんた、男のことが好きだったんじゃないの。こんなのが私の娘だなんて恥ずかしい。迷惑かけないで。

返す言葉が見つからなかった。構ってくれる人がいなくなるのが怖いからとはいえ、会うことを決めたのは私だ。男に手を掴まれた時、体が動かなくなった。逃げられなかった。中にだって出してほしくなかったし、痛かったのに。やめてとも嫌だとも、逃げるという行動が起こせなかったのも、私が甘えていたからなのではないか。私が全部悪かったんだ、お母さん、こんなことしてごめんなさい、こんな人間でごめんなさいと思うようになった。

レイプ被害に遭うと1回だけ無料で産婦人科に行くことができる。私が子どもということもあって警察は母親と受診することを勧めた。私もお母さんと行きたいと意思表示はしたものの母親は拒否し、巡査と病院に行った。
背中に当たる内診台や綿棒(性病検査)を挿入されるときの感触で犯されていた時のことを思い出し、過呼吸を起こしてしまった。巡査は泣き喚く私のそばにずっといてくれた。

「無理に検査しなくていい、帰ろう、ごめんね」

その日は家まで巡査に送ってもらった。辛かったね、本当にごめんと、巡査は泣いていた。悪いのは私の方なのに。ごめんなさい、迷惑かけて本当にごめんなさい。そんな気持ちでいっぱいになって、車内で私も泣いてしまった。


警察への届出が終わり検察に行くようになった頃、母親に「ごめん」と言ったことがある。犯人を捕まえるというのは想像以上に大変なことで毎週末警察へ取り調べに行ったり、学校を早退して検察に行くこともあった。母は私の顔を見たくなかったため父親が警察や検察までの送り迎えをしてくれたが、ある時から母親がしてくれるようになった。母親にも父親にも申し訳ないことをしたと私は思っていた。母親にごめんと言ったら、優しい言葉が返ってくるのではないかと期待していた。しかし返ってきた言葉は違った。

本当にそんなこと思ってんの?甘えんな

その言葉が未だに脳裏に焼き付いている。私は一生母親に許してもらえないんだと悟った。もう愛されなくてもいいから許してほしい、あんたは悪くないよと言ってほしいと、強く願っていた。

いつだったか思い出せないが、母親に「死んでほしい」と頼まれたことがある。警察に出入りするようになった頃、学校への送り迎えもしてもらっていた。学校へ行く途中に死んでほしい言われた。反射的に死にたくないと言ってしまった。母親は

あんたなんて死ねばいいのよ、迷惑しかかけてないじゃない、あんたがいなくなれば私が辛くなることもないのよ

と激昂した。すぐに母親は我に返り、一緒に死のう、海に行こうなどと訳の分からないことを言い出した。私はこれから死ぬのだと思うと怖くなって信号を待ってる途中、車から降りて逃げた。母親が追いかけてきた。私だって辛いんだよ、わかってよと私は喚いた。その時はじめて母親の前で泣いた。

あんたがいなくなれば私が辛くなることもないのよ

自分がした行動がここまで人を追い詰めてしまったという事実に小学生ながら衝撃を受けた。母親も苦しんでたということに気付いた。ごめんなさいという感情が湧き出した。

あろうことか中学生になった私は、セックス依存症になった。好きだと言ってくれる人たちはいたが、全員とも付き合う代わりに寝た。ネットで知り合った人とも寝た。セックスをすることで穢れた自分を浄化できるのではと思っていた。セックスをすることで自分がやってることに間違いはないと思い込ませていた。セックスをして、またしたいと男側から言われると自分は男に性的に利用されているのではなく男より優位に立ち、男を利用できている気がした。自分を傷つけているだけなのにやめられなかった。性被害に遭うと普通は性行為自体に恐怖を抱くのにどうして自分はすすんでセックスをするのだろう、こんなことを続けて私は幸せになれるのかとずっと悩んでいた。

被害から7年近く経つがPTSDもまだ治らない。診断は受けていないためPTSDではないもしれないが症状が酷似しているため大目に見てほしい。月末になると過呼吸や吐き気が襲ってくる。昔に比べれば遥かに回数は減ったが無くなることはない。小中では性教育の授業で過呼吸を起こし登下校中でも中肉中背の、奴に似た男を見ると体が固まってその場から動けなくなった。被害に遭ってからの2,3年は上手く寝ることもできなくなった。私の睡眠時間が今になっても極端に短く、寝つきが悪いのはおそらくこれが原因なのだと思う。横になると犯されたことを思い出す。震えや冷や汗が止まらなくなった。写真を撮られることも暫くの間は異常に嫌がっていた。行為中の動画、いわゆるハメ撮りを、奴にされた。レンズをこちら側に向けられると、もっと喘いで、自分で脱いでと、奴から言われた言葉を思い出して過呼吸を起こした。苦しくてどうしようもないけど、誰かに助けてとも言えないし、こんなことを話したら私を好いてくれている人たちも離れていくんじゃないかと怖かった。PTSDは立派に起こすのに、よく知らない男と日常的に寝ている自分のことも理解できなかったし、許せなかった。

最近になって不特定多数と交わることはやめた。自分を傷つけるだけだって気付いたし私のことを理解してくれる人と出会えたから。仲の良い友人たちには7年前に起きたことを話しているが本当のことは言えていない。出会い系で出会ったをよく知らない人と言ったり、犯された時期を小学生じゃなくて中学生と言ったり、嘘を混ぜてしまう。友人たちを信用してないわけではないが、心のどこかで本当のことを言ったら嫌われてしまうのではと思う節がある。その度に辛かったねと言ってくれる友人たちに申し訳ない気持ちになる。

発作が出る時、必ず「許して」と言ってしまう。
誰に向かって許してほしいのか、それは紛れもなく”自分”であることに最近気付いた。

母親に優しい言葉をかけてほしかったのは母親に許してもらいたかったからではなく、心のどこかで自分が悪いと思っていたからではないか。

会うという決断をしたのも、逃げなかったのも自分。私の話を聞いた人はみんな私に悪くないよと言ってくれるけれど、私は今だにその言葉を信じられない。あのとき自分がもっと強くいれば、逃げていれば、こんなに苦しむことはなかったのかな、と。過去の自分を恨んでも変えようがないのに、自分を呪ってしまう。

私は自分がしてしまった取り返しのつかないことをずっと自分に許されたいと思って生きている。7年前のことを思い出して死にたくなる時がたまにある。死にたいというより消えたい、忘れたいという思いの方が強いのだが。残念ながら私の犯してしまった罪は消えないしこれからも自分を縛り付けていくのだと思う。それでも、いつか心から自分を許せるようになれたらいいなと、そんな日を願いながら今日も生きている。

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