ルックバックのテーマは「孤独…だけどひとりじゃない」

先日アニメ映画「ルックバック」を観てきた!
感想というか、心の整理のために文章にします!
ネタバレあり!

●主軸テーマは「孤独…だけどひとりじゃない」


この映画のテーマは間違いなくクリエイターの孤独感だ。
そしてその気持ちを持っているのはあなた一人じゃない、という
原作者藤本タツキ先生が、彼自身を含むすべてのクリエイターたちに送る賛歌であり、共感であり、慰めなのだ。

●孤独感と無力感


孤独

藤野の、家族やクラスメイトの冷ややかな視線の中での絵の練習。
京本は人づきあいが怖くなり部屋にこもり、机に向かって絵を描く日々。
連載が始まり、コミックスも順調に発売され、人気投票の結果という数字は画面に表示されながらも、藤野の仕事場はいつもひとりだ。
事件発生の日も、京本はキャンバスに向かって黙々と絵を描く。
休憩するのも一人だ。

無力
事件が発生して、孤独感が無力感にかわる。
創作の意味や、自分の活動を顧みて、悲しみに暮れる。
自分のせいじゃないか?と自責の念にもさいなまれる。

孤独は辛いものか?
というと彼女らにとっては、単純にマイナスのことという評価ではない。
自分から望んで孤独になっているか?というとそうでもない。
藤野は元から陽キャで、京本も外にでて遊ぶことに楽しさを見出している。

単に彼女らは、創作に没頭する生き物で、その結果として孤独がついてきているだけだ。
孤独は単なるおまけ、ではあるものの、やはりそこは人間で、
周りの人の目を気にしたり、他人に合わせて生きなければいけない時もあったり、
一人の時間が長くなると自分の生き方に迷いくじけ立ち止まることもある。
でもそういう生き方はあなただけじゃないよ、と教えてくれるのが本映画だ。

SNSでいくつか観た本映画の批評で、
「努力は裏切らない」とか
「何かに打ち込んだ青春が」とか
「孤独を乗り越えた先に成功が」
というところに着目する意見がいくつか見られたが、
そこはまったく解釈不足だと思う。
ジャンプ作品ということに引っ張られているのだろうか?
「友情・努力・勝利」の作品ではない。
「友情・努力・勝利」を表向きには表現している漫画家たちが
どんな生き物なのかを紹介してくれる映画だ。
それがすべてのクリエイターたちにとって、
賛歌と共感と慰めになっている。

●孤独感の解放と無力感の解放

孤独感の解放
あらすじを整理すると
藤野が京本の絵を見て、その実力に悔しがる→練習
藤野レベルアップ→京本の実力との差がわかる→漫画を辞める
卒業式の日、藤野は京本の家で、スケッチブックの山を見る。
(自分の何倍も積み重なっている)
(この瞬間に藤野は京本も自分と同類だとわかる)
同時に京本からファンだと打ち明けられる→
・敵わないと思っていた相手に認められていたことがうれしい
・5年生から6年生にかけて劇的にうまくなったといわれ、(練習の成果を認められて)理解者がいてくれることがうれしい
・自分と同じ生き方をしている人間と出会い孤独じゃないと知りうれしい
→喜びの舞

と京本と出会ったときから藤野の創作の魂が爆発するわけだが、
そこには自分と同類の存在を見つけたという喜びがある。
作業自体は孤独で地味で冷ややかな目で見られるが、
そんな日々を同じに過ごしていた人間で、
しかも神や天才というのではなく、物量は違えど自分と同じように修練を積んでいる人間で、
相手も自分には敵わないと評価してくれたという
たくさん喜びがあの帰り道には詰まっている。
そして家につき机に向かう。
孤独な作業にまた自分から身を投じたわけだが、心持ちはもう違う。
孤独ではあるが一人じゃない。

無力感の解放
京本の事件後、部屋の前で藤野が四コマ漫画を破り、
世界線が分岐し、
藤野がヒーローとなってカラテキックによって京本を救う。

この点をメタ的視点から観測したい。

このファンタジー的展開は、まさに漫画的で、フィクションの物語だ。
過去を改変することや死んだ人間が生き返るなど、現実では絶対に起こりえない。
ただそれができるのが「漫画」だ。
漫画の中であれば、作者が思った理想の世界を描けるし、
悪者が現れてもヒーローを登場させて救ってくれる。
死んでしまった人を救うために過去を改変することも可能だ。
だが漫画の中では救われても、現実世界で起こった京アニ放火事件は巻き戻ることはない。
あの分離した世界線を観ていると、
藤本タツキ先生が「漫画ならこんなふうに理想の展開でハッピーエンドにできるのになあ」と嘆いているような
無力感の象徴として読み取った。
だからもとの世界線に戻される。
あくまで漫画はファンタジー、フィクション、非現実。
だけど京本から4コマ漫画が返ってくる。
ヒーローが現れて、京本を救ってくれる4コマ漫画だ。
最後のコマでは背中に斧が突き刺さり大けがをしている。
タイトルは「背中を見て」

背景しか描けなかった京本が、4コマ漫画を描いたのだ。
「背中を見て」の背中は間違いなく漫画を描く藤野の背中だ。
京本は小学生藤野の漫画を見て、あこがれて、部屋を出て、
人生の喜びを知ったのだ。
自分の描いた漫画は人を幸せにするんだ、ということを
藤野は思い出すのだ。
ジャンプで連載されるほどの漫画を描いたのは、描けたのは、
藤野もまた京本の背中を見ていたからだ。
漫画は無力じゃない。無意味じゃない。と京本との日々が教えてくれたじゃないか、と立ち上がり、また机に向かい絵を描く。

藤本先生の人生については詳しく知らないが、
調べるまでもなく、きっとたくさんの漫画や映画に感動し漫画家を目指したのだろう。
世のクリエイターに憧れ、
心を湧き立たされ、
嫉妬し、
悩み生きてきたに違いない。
決して万能天才で全知全能の存在ではない。
同じ人間で、悩みくじけてしまうのだ。

京アニ事件で亡くなったアニメーターたち、そして事件に対して無力感に押しつぶされたすべてのクリエイターに対して、
藤本先生からのエール。
創作は無力じゃない。
きっと誰かの心を救う。

●「漫画を描くのは好きじゃない」と言っちゃう藤野


藤野のセリフに、
「だいたい漫画ってさあ…私、描くのはまったく好きじゃないんだよね」
というセリフがある。

このセリフを真に受けると藤野の漫画に対しての熱がないようにとらえてしまうが、当然真に受けるべきセリフではない。
これはクリエイターたちのあるあるで、
こう言っとかないと、自分たちの心のバランスが取れなくなるのだ。

小学生のうちからデッサンやパースの参考書を買って、
まわりの冷ややかな目の中で孤独に絵の練習をする人間だ。
ファンが出来たら腕がちぎれんばかりに舞う人間だ。
かけがえのない存在が死んでも机に向かう人間。

好きだからとか、楽しいとか、
そんな次元はとっくに超えた、
そういう生き物なのです。
そう、超人的なのです。

こう言うと、
好きなことだから頑張れるんだね、
努力できるのも才能だねとか、
ファンがいるから続けられるだとか


色んな言葉で漫画家は評されるのだけど、
漫画家さんたちはみんな
どれもそれはそうなんだけど…
実際にはそこまで超人的じゃないんです。
どんな人でも頑張れない日やくじける日、無力感に押しつぶされる日があるんです。

●クリエイターってこういう生き物なんです

この映画は、
彼女らがクリエイターという変な生き物で、
その変な生き物の生き方には、
こんな喜びとか悲しみとか悩みとかありますねん。
あ、君もそうなん?
孤独だよね。でも楽しいよね。面白いよね。
出会いもあるし別れもあるよね。
世界に影響を与える神的な扱いされるときもあるけど、
そんなことはないよね。
無力だよね。
悲しい事件があったよね。
なにかやらなくちゃ、なにもできないのかな?
むしろ自分のせいなのかも?
このまま創作を続けてもいいのかな?
意味なんてないんじゃないの?
本当に必要なものなの?
どうして私たちは創作をするの?
じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?
その答えは…

「絵を描くのがすきだから」
「まわりの人が褒めてくれたから」
「京本が褒めてくれたから」
「京本と過ごした日々が楽しかったから」
「漫画ならヒーローが現れて世界を救ってくれるから」

すべてそうだが、そうじゃない。
藤野の創作に対する気持ちは、言葉では表せない。
表せるはずもない。
理由があるから描くのではない。
理由はあとからついてくるだけ。
藤野にとってこの問いは、
「なぜ生きているのか」という問いと同じ。
答えを言葉にできるはずもなく。

この映画を観たクリエイターひとりひとりが自身に問いかけ、
悩むだろう。
答えはそれぞれ違うだろう。
でもこの映画が伝えてくれたことは、
「クリエイターは孤独だけどひとりじゃない」


とりあえず感想おわり。




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