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HSCを知ってほしい

個性が障害になるとき

もしも。

腕がなかったら。
足がなかったら。
目が見えなかったら 。
耳が聞こえなかった。
脳の機能がうまく働かなかったら。

それらは単なる個性とも言えます。
そんな人もいる、そういうことです。

しかし。

「みんなとちがう」ことは、「みんなには使いやすいものが使いにくい」ということにつながります。

みんなとちがう、工夫や、努力や、他者の助けが必要な時もあるのです。

だから、「みんな」に当てはまらない、助けの必要な個性を「障害」と定義することで、その人が何に困るのか分かりやすくするための言葉だと思うんですよね。


HSCは障害ではない?

HSCにとって最大の難関が、幼稚園や学校といった、集団への適応ではないでしょうか。

HSCは「強烈な自我」を持つために「強制される」ことには強い拒否反応を示します。

自分の意思や自分のペースで行動をすることに強いこだわりがあり、集団に合わせなければならない場面で不適応を起こしがちです。

学校に適応できなければ、教育や居場所作りの全てを家庭で負担することになります。

それができる家庭ばかりではなく、経済面でも難しいこともあり、学校に適応できないことはとても困難なことだと感じます。

「みんなとちがう」ために困るのであれば、HSCが学校適応の「障害」となる部分を明確にし、必要な援助や対処方法が広く知られるべきなのではないかと、私は思います。


無理解による差別から受ける傷

なぜあえて「障害」という言葉を使ったかと言うと、HSCが集団への不適応によってパニックを起こした場合、単なるわがままとして見られがちだからです。

「あなたは悪い子だ」と言われて自己肯定感が低くなってしまうと、卑屈になり、ますます孤立してしまいます。

絶望から希死念慮にとらわれたり、逆に攻撃的になったりします。

周りの期待を察知して、いい子を演じられる子もいます。
しかし内面では強烈な自我と葛藤し、悩み続けていたりします。

HSCが集団に適応することは、決して簡単なことではないということを、ただ理解してほしいのです。

パニックを起こしていても、わがままではないことを知ってほしいし、何事もなく集団で過ごしているだけでも、実は人より疲れているかもしれないことを知っていてほしいのです。


理解があれば受け入れられる

もしも。

身近に障害を持つ方がいたら、どのように接するでしょう。多くの方は、自然とその人に配慮した行動をとられるかと思います。

では、なんだかよくわからない変わった人、「あの人ちょっと変だよね」と思われるような人がいたら、どう思われるでしょうか。

得体の知れない異質さは受け入れがたいものです。

しかし、明確な違いがあること、その理由を知ることで、違いを受け入れることができます。


学校へ行けるか行けないかで、ふるいにかけないでほしい

学校へ来ない子がいたら、どう思いますか?
「自分勝手」「さぼってる」「わがまま」
不登校にはネガティブなイメージがつきまといます。

日本の学校はとても合理的です。40人ほどもいる子供たちに対して、先生が1人でまとめられるのは、集団行動の指導が行き届いているからこそ。

わがままをいう人がいたら、集団が機能しなくなって、先生の数がたりず、成り立たなくなってしまいます。

みんな、集団のために、大なり小なりの我慢をしているからこそ、勝手な行動をする人には憤りを感じて当然なのです。

しかし、HSCが集団に適応したくてもできない状態を「わがまま」として矯正しようとすることは難しく、事態を悪化させます。


そうなると学校へ行かない選択を考えざるを得なくなってしまいます。

集団に加われないことを「悪いこと」だと刷り込まないでほしいのです。

HSCの子は、集団への馴染みにくさを抱えながらも、人との深い関わりをとても必要とします。

だからこそ親は、先生や友達と関わりを持つために、学校へ行けることを願います。

学校以外に、日常的に子供同士で深く関われる場が現状では身近にはなかったり、探すことが難しいと感じます。

集団が合う子も合わない子も、その子に合った居場所があって、教育を受けられる場があってほしい。

自分の居場所がある、自己肯定感を持てる、そうしたら、例え学校に行かなくても社会性は身に付くはず、そう思います。


だからこそ

HSCを広くみんなに知ってほしい。

理解し合うことで、差別や排除のない社会になってほしい。

もっともっと、HSCの認知が広まってほしいのです。

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