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反転授業のオンライン講座に参加したこと

私は最近、「反転授業」を学ぶためのオンライン講座に参加しました。
約5週間の受講期間を終えて、自分の「学びのシェア」としてこの記事を書きたいと思います。

私が得たもの

ずっと抱えてきた違和感、ずっと晴れなかったモヤモヤ。
言葉にならなかった思いたちが、少しずつ言葉になっていくこと。
閉じ込めていたものを放出して、心が晴れていくことの爽快感。
ありのままの思いを伝え合える仲間ができたことへの感動。
自分の思いを伝えることが、誰かにとって未知への気づきになることのうれしさ。

自分で自分を閉じ込めてきた、これまでの苦しさ。
誰にとっても必要ないもの、消し去って作り替えなければ生きていけないと感じていた「本当の自分」の存在の意味。

いろんな思いと、気づきと、感動がごっちゃになって…
言葉にしたいのにまだできなくて…
感動のような、焦りのような、なんとも言い表せない思いがあふれて涙が出そうな瞬間を何度も味わいながら、とても充実した5週間の受講期間を過ごさせていただきました。

知識を得ること、それを含めて、それを超えた何か、まだ言葉になりきらないけれど自分の中の認識の変化、大きな学びの成果があったと感じます。
「学び合いの場」とは、自分の芯を伝える場でもあり、表現を磨く場でもあり、それを他者からも受け取る場であり、自分と他者の「違い」から気づきを得て広がりを持つ場である、という実感がありました。

反転授業とは

反転授業では、従来学校の授業で行っていた「知識のインプット」を動画視聴などを用いて家庭で取り組みます。そして、学校での授業時間に演習、プレゼンテーション、ディスカッションなどを行うことで「知識のアウトプット」を体験します。「知識のインプットとアウトプットを行う場の反転」とも言えます。

私が反転授業に感じている可能性、それは「対話力が磨かれる」ということです。

反転授業でいう「知識のアウトプット」とは、単に習熟度のテストのためのものではありません。その人がその知識をどのように習得し、何のためにそれを使うのか、その過程を他者と分かち合うことで学びが深まるのです。

そのためには、正しさや習熟度でふるいにかけられることのない、安心感が必要です。疎外される不安やおそれを取り払うことで、それぞれの視点、それぞれの段階からの学びが共有され、混じり合うことで新しい気付きが生まれていきます。

生命としての視点に立ち返ること

私はこれまで、出会う誰もが「本当の思いを隠している」そんな違和感を感じてきました。みんなが一生懸命に「あるべき姿」を演じ合い、何か一つの正しい世界を作り上げているかのような、ハリボテの世界に生きている感覚。ふるまいを間違えたら、はじかれてここにはいられなくなるのではないか、そんな不安や緊張を感じていました。

反転授業を行うにあたって、そんな不安な世界観をいかに手放していくかが、何より難しい部分であるように私は感じています。
「正しさに従う規則的な世界」それは確かに、私たちの生活を便利で快適な世界にしてくれます。だから私たちは全てを正しさの枠に当てはめて、人をふるいにかけてしまう…

そんな「規則的な世界そのもの」さえも、「生命としての視点から作られた協同体のひとつに過ぎない」ということを忘れてしまっている。
もう一度生命としての視点に立ち返り、「規則的な世界の枠組みそのもの」を変化させていけるということや、枠組みはひとつではないということを、再認識する必要があると思います。
「生命としての視点から規則的な枠組みを見直すための取り組み」それを実現する手段としての対話には、自己理解、他者理解を目指したフラットな関係性が必要であるということ。そのような対話力を育む試行錯誤の場が、反転授業なのだと私は認識しました。

これからに「学び」を生かすということ

私のイメージとしては、「参加者の自由なアウトプットが促進され、教室がフラットな学び合いの場となる授業」という意味で「反転授業」という言葉を捉えています。

オンライン講座では、まさに自分たちが体験することで「反転授業」を学び合い、主催者から提供される知識をもとに、主催者も含めた学習者同士の学びや気付きが共有され、「なぜそれを学ぶのか」という深い根っこの部分でつながり合えたように感じました。

私がその「学び合いのコミュニティ」に居心地の良さを感じ、癒されたことは事実なのだけれど、その枠組みは私の今置かれている現実の枠組みとは現時点で全く交わることがなく、私は実生活にまだこの学びを生かせていない状況にあります。

講座で得た「学び」や「気づき」をもって、いかに「自分が置かれている世界の枠組み」に主体的に関わっていくのかが「学びを生かす」ということであると感じています。

実生活への問題認識

私がなぜ学びたいと思ったのか、どうなりたいのか。
それは、私自身が感じているマイノリティの生きづらさを解消したいという思いがあります。
マイノリティ当事者が感じる生きづらさの課題と同時に、マジョリティ当事者が感じるマイノリティの存在に対する扱いにくさという課題にも目を向ける必要があります。

発達障害に関するある記事に、たくさんのコメントが寄せられていました。

《探る考える》発達障害と向き合う 悩み尽きず保護者疲弊 多様性認める社会に
https://news.yahoo.co.jp/articles/684c3bfc58dc5d4cf9e51937c24a99cd9dbd3f55


ひとつの仕事を共にする際、労働力として人の能力に違いがあることについて「社会が違いに寛容であること」は確かに大切ではありますが、「社会として対応するシステムを作らないと現場の負担が増えるばかり」というのも事実です。
どの視点からのコメントも切実であり、この課題を「違いによる分断」という当事者間のわだかまりにとどまらせてはいけないと感じます。

「違いが分断になってしまう社会のデザイン」に目を向けて、新しい形の共生社会を作っていくことができるのではないか、それが私の目指しているものです。

学び合いのコミュニティを作りたい!

私にとって、全ての人との関わりは学びにつながっていきます。
「誰からでも学べる」
そのことに、多くの人に気がついてほしい。

今自分が置かれている世界の枠組みから、ぐっと視点を引いてみてほしい。
先人の作り上げた「規則的な世界」を外側から見直し、全ての人がフラットな関係からお互いの視点を共有し合い、試行錯誤によって、より自分たちにフィットした「新しい世界」を作っていけるということを、実感として感じ取っていきたい。

そのために、このオンライン講座で学んだことを生かして、「学び合いのコミュニティ」をこれから作っていきたいと思っています。

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